私が伝えていきたいこと
女性は輝きたいと思ったら輝けるということ
私は自分が結婚してどんどん『妻』という役割を果たさなければと思うようになった。もう自分のために使うお金はないし、その時代は終わったと思ってきた。なんでこんな考え方に至ったのかと思ったら、「結婚は我慢だよ」と教えられてきたからだと思う。そして私の母親も祖母も、もれなくそんな生き方をしてきたからだ
知らないうちに『枠』におさまることが普通なのだと思ってきた。『枠』から外れたら、奇異な目でみられるし、きっと身内から怒られるし、いい顔されないと思ってきた。
『身内にいい顔されない』自分が嫌だっただけだ。自分がやりたいことよりも、人からどう思われるか気にしていたからだと思う。今だって気にしていないわけじゃない。でも、結婚して子ども産んで数年間よりかは、その枠を超えられるようになったのではないかと思う。
だから女性が、自分のことよりも家族のことや周りのことを思って自分のやりたいを心の中にしまってしまう気持ちがあることを知っているし身をもって体感している
1人の女性としての前に『妻』であり『母親』であるということを優先してしまうのだ。そういう生き物なのだ
私の大事な同級生の友達が4年前に言った強烈な言葉を今でも覚えている。
「もうおばさんだよ」って
私は、その言葉にものすごく悔しさに似たものを感じたのだ。その言葉には「女性としての生き方には諦めも必要だ」という意味も感じ取ったからだ。
自分のことよりも子供のことを
女性としていきいき生きるよりも家族を守ることを
最優先にしている言葉に思えたのだ。
そのときに
「そんなことないって」と言った気がするが
私はその時その根拠を示せるようなものを何も彼女に提示できなかった
思い返してみるとその頃から私は、私をもっと輝かせたいと思うようになったように思う。女性だからってあきらめなくてもいい、、、
そんなことを伝えられる人間になりたいと思ったのだ
でもそういう人間になるためには「怖い」の選択をし続けなければならなくなった。吐きそうになり「この選択が未来合っているか」「失敗して、ほらみたことかって笑われる」そんな妄想もたくさんした。
途中から気づいたことがあった
誰もあたしを縛っていたわけではなかった
そこに気づくためには長い年月を要した。私は、自ら私を縛っていたことに気づいたのだ。自分は本当は自由だった。自分の人生で「やらされ感」があるのだとしたら、それは自分で選んで「やっている」ということに気づいていないだけだ。
きつい言葉になるが、誰もあなたを縛れないのだ
周りは 外野は 色々言うだろう
でもその言うことをきいたところで、あなたは幸せなのだろうか。。。
目先では、平穏という名の偽の幸せや誤魔化しが得られるだろう。
それが数年経って気づくのだ、、、私は私のことを大事にしないで、周りを大事にしてそれで何が得られたのだろう。。。この犠牲心はなんなんだろう。。。誰のために犠牲にしたんだろうと。。。気づいたときには時間は戻ってこないのだ
そこで傍と気づくのだ
誰も自分の人生を犠牲にしろなんて言っていない
ということに。。。。
これは私自身が体験したことなのだ
私は30までに結婚しろと言われてきた。貰い手がいなくなるから。若さには勝てないから。そういわれて一生懸命いう事を聞いてきた。年の功、、、人生の先輩が言うから間違いはないだろう。。。一生懸命婚活して結婚したのだ。そして結婚した後、こんなはずじゃなかなった出来事がものすごくたくさん起こった。そのときに私は親のせいにした。
そして遂に爆発する
親が結婚しろと言ったからこうなったんだ
私は親に当たった。。。人のせいにしたのだ。。。ぎゃんぎゃん泣きわめいた
でも親から返ってきたのは「決めたのは自分でしょ。。。。」
その時に自分の中で何かプツンと切れたものがあった。私は大事な決断も自分の人生も自分で決めて生きるなんてことをしないでいた。何かあった時には、「人のせい」にして怒ればいいと思ってきた。
でもどんなに親に罵り怒ったところで、たとえ親でさえ
自分の人生に責任を負ってくれない
絶望に近い気持ちを味わった。
私の人生なんだったのだろうと。。。
親のレールに乗ってきた。周りのレベルが高い地域だからと、失敗しないように中学受験して、その中で努力はしたが、エスカレーターで大学まで行った。(行かせてもらった)それは親の愛だったに違いない。
でも私は『失敗』することが
『取り返しのつかないこと』だと
学んでしまったのだろう
そう解釈してきたのだろう。。。
正しいだろう道を歩み、無難で転ばなさそうな道を選んできて、そこに自分の意思とかやりたいとかほとんど無視してきたのだと思う。
だから同じ境遇の女性がたくさんいるのを見ると、マジでほっとけなくなるのだ。
やりたいことなんてわかんないよ。。。
わかんないんじゃない、、、
『わからなくなるように自分の感覚を麻痺させて生きるようにどこかで自分の感覚を感じることを諦めてしてしまったのだよ』
と思う。家族のため、周りのために。。。
そのやりたいことがわかるためには「色々なことをやってみる」ことなのだよね。
そうすると「これは楽しい」「これはつまらない」ということが体感としてわかるのだ。
その体感を積み重ねていかないと、麻痺してしまった感覚を取り戻すことはできないと思う
私ももれなくその状態だった
めんどくせーとか
どんだけやっても面白いこと見つからなかったら無駄じゃん
と思ってきたけれど、今は違う
「つまらなかった」この経験がものすごく大事な感覚を取り戻した瞬間なのだ。だから色んな事をやることに「色んな理由」をくっつけてやめてしまうのはもったいないと思う
「色んな理由」をくっつけてやらない選択をするのは、ただ自分を犠牲にするための言い訳
私はそう思うようになった。
「やりたい、やってもいいのかな、迷う」
迷っている時点で気になっている時点で、やりたいんだよ
それに気づくこともできなくなってしまっているんだよね。
私もいまだにあるの
「やりたいな」「行きたいな」「やってもいいかな」「えー迷う」
あのね、人は全く興味のないことに対して「迷う」ことなんてないんだよ。。。
じゃあ「今戦争をしている国に行くんだけど一緒に行く??」と聞かれたら
「迷う!!」なんてことはあまりないよね。。。
「行ってみたいな」とか「行ってもいいかな??」とも考えないはず。。。(極端な例で申し訳ない・・・わかりやすく伝えたくて不快に感じたらごめんなさい)
だから「迷ったらGO」なんだよ。やってみてから、後悔したらいいんだよ。
だいたい後悔しないから笑
自分のやりたいこともわからなくなってしまっている女性たち
女性が1人で個人事業主として活動し始めた人(もれなく私も)
自分の中にある勇気を全力で振り絞って始めた起業した女性たちの活動を支援できるようなことをしていきたいと思っている
もっと女性は輝いていいと思っているし
私がそれを体現していかなくてはいけないと
自分の体験を通して強く思うのだ
そんな責務を感じている
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