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無意識にインストールされている「家族至上主義」をアンインストールせよ

「家族なんだから」「親として」「血は争えない」など、聞いたことない人はいないのでは。

「素敵な家族像」や「素敵な親子像」は「たまに喧嘩もするけれど、仲良い友達みたいな親子」や「やっぱり何かあった時に頼れる存在」、「なんだかんだ言っても幸せな家族」。メディアでも学校教育でも、そんな家族像、親子像が美しいストーリーとして語られる。

それは無意識のうちに私たちにインストールされ、私たちを侵食し、自分の家族や自分と親との関係性、そして子との関係性と比較し嘆く。あるいは、いずれ自分が持つであろう家族に対して憧憬の念を抱く。

でも、実際子どもを産み育てると、想定していた親子像には遠いことがわかってしまうことがある。
そして、子ども自身も物心ついた時には、自分の理想的な親子像とは異なることに気づくこともある。
たまたま良い支援者に出会えたり、たまたま距離をなんとなくうまく保てたら、そのまま子どもは物理的に離れ、別々に暮らすようになる。
別々に暮らすようになってから関係性が良くなった家族や親子も多いのでは、と思う。

家族支援を担ったり親子に関わることのある、対人援助職として思うのは、「家族」や「親子」を支援する時、「良好な関係性を築こう」とすればするほど、お互いに疲れてしまうことがよくある。
そんな時に必要なのは、「良好な関係性を築く」というプレッシャーやそのためのノウハウではなく、「これ以上悪くならないような工夫」や「お互いにちょうど良い距離感で共存する」という考えやノウハウではないか。支援者自身がこの「家族至上主義」をインストールしているとかなりそれは支援に影響してしまう。良かれと思って支援しても、それは親子共に追い詰めてしまっているかもしれない。

最近出会う10代の方たち、SNSなどで活躍の場を見つけたり支援者と繋がったりして、ずいぶん早い段階で家を出て、働いている人も増えている印象。とても良いと思う。親との関係性のあり方を自分で選べるようにしたい。こういう人たちを支援する仕組みはもっと増やしたいし、みずからリーチする力はないけれど、親子で暮らすのがしんどい人たちにリーチする仕組みも作りたい。

「親子、家族は仲良くすべきだ。何かあった時に頼るべきだ」なんて考えは捨てて良いと思う。
例えばパートナー間においては「どんな関係性でありたいか、その関係性を維持するためにどんな努力が必要か」など話し合うことが最近は増えているように思うが、親子でもそういう話し合いを定期的にやるのも良いのでは。

「多様な家族像」と言った時に、「お父さんが二人」や「シェアハウスでみんなで育てる」みたいな家族像はもちろん必要だが、一定の距離感のある家族像、別居家族、食事をあえて一緒にしない家族、とかもあって良いのでは。

自分の中にもあった家族至上主義、積極的にアンインストールしていこうと思う。

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