見出し画像

障害のある子どもの保護者の「意思決定」を「自己責任」とする違和感

「障害」に関わる仕事をしているすべての人、そしてすべての対人援助職にぜひ読んでほしい本。


専門家・支援する側と当事者・家族の間にある溝や、生命倫理についてものすごく考えさせられます。

「『親が頑なだから/無知だから、せっかく医学的に正しい選択肢を提示してやってるのに理解しない』と専門性の高みから一方的な判定の眼差しが向けられている限り、そこにある固有の親と固有の医療職との関係性が変わることはない」p.212

障害のある子どもの保護者がものすごい数の「選択」を急に迫られることについてずっとモヤモヤしていた。藁にもすがる思いで情報や専門機関にアクセスすると、溢れる情報やいろんな医者や専門家が真逆のことを言ってくる中で「冷静に」選択を迫られることの酷さ。上から目線で物事を断定的に言われたり、話を最後まで聞いてくれなかったり、保護者自身が責められる中で、意思の表明を迫られること。

そのような、傷つき体験のある当事者や家族に「エビデンスが云々」といっても耳を傾けないのは当然だと思う。それよりも、押し寄せる不安の中でようやく病院や支援機関に来てくれた方々への接し方に配慮ができる専門家を増やしたいし、それができるだけの余裕をつくるために働く環境を整備する必要がある。

追い詰められている状況で冷静な判断なんてできるわけがない。「正しい」選択ができない当事者や家族を責めてもしょうがない。冷静に選択できない状況であってもその人、そして家族にとって良い選択ができるような仕組みを作らなければならない。

これは学校教育でも全く同じだと思う。
とりわけ就学先決定や合理的配慮の意思表明について、支援者が勝手に決めてしまっていること、「意思の尊重」という名のもとの自己責任、当然の権利を主張しているだけなのに「モンスター」認定をしていることを認識しなければならない。

「『意思』とは、そんなふうに常に言葉でくっきりと余すことろなく表現できる、不変で強固なものだろうか。本当は言葉では拾いきれない思いや、合理で説明できない気持ちというものが私たちの中にはたくさんあって、『意思』として言葉にできるのは、常にその一部でしかないんじゃないだろうか」p153

そもそも「意思決定」は自分でしているようで、自分を取り巻く周囲やこれまでの過去の履歴との関係性の中でしている。純粋に自分の内側から出てきたもので決めるわけではないのに、「決めたのはあなただから自己責任」となる。これについては、「中動態の世界」の著者、國分功一郎先生も以下のようにお話されている。

「もう全部説明しました。がんの治療法が五つあります。どうぞ決定してください」と言われても、意思決定などできるはずがない。そもそも意志というものを決定する、このこと自体が、なにか非常に残酷な側面がある。
ー國分功一郎
中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援

國分先生は「意思決定支援」ではなく「欲望形成支援」、とこの記事でお話しされている。過去のあれこれや周囲の状況も踏まえて、「一緒に決めていきましょう」。一緒に決める。自分一人で決めて一人で責任を持つのではなく。

保護者から相談を受けた時、私は「親御さん次第です」なんて絶対に言いたくないし、「正しい選択をしましょう」とも絶対言いたくない。どんな選択をする保護者であっても、悩んだ結果選択している。その背景にはことばで表すことのできないいろんな思いがあるのだろう。

普通学級を選択する保護者に対して「支援級に行った方がいいのに...」とか「親が受容できていないから...※」とか思ったり言ったりしてしまう支援者にこそこの本をぜひ読んでほしい。

※「障害受容」ってことばも本当に苦手。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?