10年
震災から10年
あの年は母がくも膜下出血で倒れた年
1月の始めだった
夕方仕事から帰った父が電話してきた
18時すぎ。
息子達はまだ二年生と保育園。
丁度お風呂を済ませて、夕飯を食べさせるところだった。
「お母さんが具合悪そうなんだ、来て欲しい」
え?
状況はよくわからないけど、父の声は震えていた。子ども達を連れて行くか迷ったけど様子を見てから…と思い、2人にすぐ戻るからと言い残し隣街の実家に駆けつけた。
いつもは自転車なんだけど、お風呂上がりだったのでたまたま車で出かけた。
実家に着くと、父が玄関を入った廊下で腰を抜かしている。
奥のリビングに行くと母がうずくまっていた。
「どうしたの⁉️」
昼過ぎから頭痛と吐き気がするという。
母は病院嫌いの我慢強い性格で、滅多な事で通院しない人だった。私たち兄弟も、病院は歯医者さんくらいしか通った記憶がない。
見るからにただ事ではない様子に私が救急車を呼ぶと言ったが
「近所迷惑だからやめて」とか細い声で言う。
でも、ただ事ではない事が私にはよくわかった。すぐ病院へ行こう。
慌てて近くの病院に連絡するも繋がらない。
やっと繋がったのが私が後に手術を受ける事になった赤羽の北医療センターだった。
腰を抜かした父を置いて母をなんとか車に乗せ病院へ。
その時、息子達を連れてくれば良かったと後悔した。当時まだ独身だった妹に連絡し、仕事帰りにうちに寄ってもらう事になった。
季節柄、救急外来は混んでいた。
母の吐き気は治らない。
嫌な予感がした。
なかなか呼ばれないのでたまりかね、通りがかった看護師を捕まえて、事情を話す。
早く診て欲しい…
みんな待ってるのは一緒だけど、頭痛と吐き気は脳に何かあったんじゃないか…素人でもそう感じてしまっていた。
ここまで焦ったのには訳がある。
母の母。私の祖母がくも膜下出血で亡くなっているからだ。
異変を察してすぐに受診してもらえた。
しかし、ドクターは、母に反応があることと、意識もあること。指の本数が数えられること。
トータルで様子見でもいいかなぁと言い出した。
私は咄嗟に、祖母がくも膜下出血で亡くなっている事を伝えた。その時母の血圧は200を超えていたのだ。
念のため…そう言ってCTを撮ることになった。
結果は黒。
くも膜下出血を起こしている。
幸い?ジワリと血管が破けているのですぐ手術をします。その前に破裂したら即死です。
会わせたい人がいるならすぐ家族を集めて下さい。
そう言われた。
予想外の展開に真っ青になった。
震える声で妹に連絡した。父にはどう伝えたか記憶がない。
弟にも連絡をした。みんな驚きを隠せない。
深夜の病院に家族が集まった。
それから手術は順調に進み、奇跡的に後遺症もまったくなく、母は回復した。
毎日、看病に通いながら父の食事の支度や身の回りの事を幼い子どもを抱えながら乗り切れたのはまだ私が若かったから。
その2ヶ月後に震災が起き
それがきっかけで私は介護士に転職することになった。
今では天職となっているけど
初心を忘れず、今ある命を大切に生きよう
そう思った朝でした。