取り零されたことばのかたちを求めて
1. ことばの学び方の試行錯誤
学ぶことは試行錯誤の連続だ。十八歳から学生となって以来(現在のわたしは二十七歳である)、今もなお学び方に試行錯誤を重ねてきた。学びにおいて焦りは禁物。早く決断を下したいという欲求を控えて虚心坦懐に学びに向き合わなければ、その学びを身につけることはできまい。
わたしは、高校を卒業後、外国語の学生となった。わたしは、じつは専門学校と大学、大学院に外国語学習者として通った。ゆえに、本稿の私の学び方の学びとは、ことばに限った言語学習のことを指す。
専門学校、大学、大学院と外国語を専攻していた。世界の言語は6000から7000個の言語があると言われていて、全てを学習するのは不可能である。そもそも、6000まで数を数えたことすらもわたしの人生にはない。ゆえに、外国語を専攻する学生は、どれか一つ、自分の専門の言語を選び、他にいくつかの第二外国語を学習する。
外国語を専攻することを決めたわたしが取り組んだことは、早速、音読であった。 この音読の出会いについて話すと、中学生の頃に出会った國弘正雄(くにひろまさお)という英語の教育者であった。既に亡くなられているが、かつては著書も多数で、ラジオの英語講座にも出演していた。わたしが彼を知ったのは、中学一年生の頃に図書館で國弘正雄の英語の学び方に関する本だった。彼はそこで「音読を500回や1000回していた」ということを記していた。というのも、このことを理解するには彼が生きていた時代背景を知るとよく、戦後間もなくで、日本は敗戦ボロボロで、教科書も限られていた。与えられた教科書をただただ音読するしか、彼が英語を学ぶ方法はなかった。当時、現在ほど教材に溢れておらず、彼に与えられた教科書は一冊や二冊だけだった。このことが、彼を500回から1000回の音読へ導いたきっかけと言えよう。
わたしは、國弘正雄の著書に出会い、中学2年生で公立中学校の教科書を通して20回から25回音読をした。おかげで、当時のわたしは「英語が得意」と公言するようになった。その後、高校に進学したが、この段階での「英語が得意」は当てにならないので、これからは高校卒業以降の語学学習に移ろう。
わたしは外国語学生としてスペイン語を選んだ。ここで「なぜスペイン語を学ぼうと思ったのか」と幾多もの質問を受けたが、本稿の主題には関係がないので省く。わたしは、中学校の頃の英語の音読が20回から25回を受けて、外国語学生として國弘正雄が言っていた500回から1000回の音読を目指した。
本稿で順風満帆な外国語学生像を描いても仕方がない。本稿はわたしの学習法と後悔、そして音読の効果を述べることが主題であるから、格好付ける必要もない。
わたしは、結局、外国語の学生としてスペイン語のある教科書を250回から300回音読はできたものの、國弘正雄が言う500回には到底辿り着けなかった。わたしは、同時に、5年間続けてスペイン語のエッセイを書き続けてきた。他に、ポルトガル語やロシア語、ラテン語やギリシャ語、フランス語、イタリア語、カタルーニャ語、インドネシア語なども学習した。様々なことを学べたことは、よかったことである。
幸運にも、大学と大学院を離れたあとに講師の仕事を獲得することができた。教育の仕事は「金儲け」には向いていないが、わたしの言語学習を活かし、また自分自身でも言語学習に仕事の責任を伴う仕方で向き合い続けることができたのは、よかった。語学学校や個人(instagramの勉強垢で語学レッスンを集う)としてスペイン語を教え、大学の非常勤講師にわたしが教え、学習塾では英語と国語を教えてきた。教え子は上智大学や早稲田大学に入学されたりした。その際、わたし自身も英語や現代文や古文や漢文の学習に明け暮れた。
2. ことばがかたちであること、音読すること
これまでのわたし個人の学習や指導上の後悔を記すならば、わたしたちは黙読して学ぶことが自然なのだけど、音読にはなかなか行き着かなかったということ。
わたしは、ノートを書いたり辞書を使って言語学習に励んできたが、ここですっぽりと忘れ去られていることは音読である。書きすぎてはいけなくて、音読を忘れてはならない。そうすると結局、読み飛ばしが多く、取りこぼしが多かった。
じじつ、指導をしていて講師であるわたしの見落としを強く痛感させられる日々である。教科書を音読すればするほど、「ああ、そこに書いてあったのか」と驚かされる。スペイン語やイタリア語やフランス語を話せるようになろうと語学交流会にお金を払って参加してきたが、不完全なスペイン語を大量に話し続けて、行き当たりばったりに修正をかけられるならば、教科書を覚えるくらい音読してしまった方が正確なスペイン語の語彙と文法で話せるようになる。
講師職として4年、これまでに5回ほど音読の必要性に駆られてきた。わたしは、しばしばノートを書きすぎてしまい、読書をしすぎてしまい、黙読を中心とした学習になりがちだった。最近、六月の後半になり、ふと音読の必要性を思い出した。
というのも、じつは音読は精神を和ませる。ここ最近、ずっと黙読が多くて辛かった。この辛さを解消するためにはどうするべきか悩んだ先に、音読の必要性に行き着いた。ことばを音読して声と息を漏らす。この「漏れ」は、わたしを和ませ穏やかにさせる。黙読をし続けていたわたしの身体はこわばっていた。
こうして音読をしてみると、声と息の漏れが心を和ませると同時に、ふたたび言語学習が楽しくなってきた。音読して国文法の教科書を読んでみると、読み飛ばしていた箇所に気付かされた。音読は一つひとつ音を読み飛ばすことはできないので、否応なく精緻に理解することが叶う。また、音読すると脳が働き、舌が軽やかになり、すらすらとイタリア語やフランス語が口から出るようになった。たとえ未だよく理解できていなくても、音読しているおかげでイタリア語やフランス語が口からすらすら出てきてくれることは、わたしを語学の実践へと誘ってくれるように思われる。
音読をするようになった、学習者と指導者としてのわたしが驚いていること。それは教科書を忠実に音読することで「ああ、これ、あの教科書のあの頁(ページ)でやったな」と思えること自体が、学習を円滑にさせてくれるということ。これまで、音読をやや疎かにしていたわたしは、「ああ、これやった」という発想すら持てなかった。要するに、音読していなければ、何が何だか分かっていなかったということ。このことは、同時に、理解していることが必ずしも学習においては重要ではないということ。まずは音読しておけば、語彙や文法に対して見覚えがあるようになる。音読しておけば、文章がすらすらと読めるようになる。音読していないと、「わたし」と「ことば」の距離が離れているように思われ、なんだか文章が読めない、なんだか文章が頭に入ってこない。(かつて、わたしがTOEICを受験したときに、わたしとTOEICの英語が離れているように思われ、TOEICの英語が頭に入らず、解けなかった経験があった。音読をするようになってから、Listening & Readingで805点を取ることが叶った。)
わたしの言語学習における課題、すなわちわたしの効果的で素朴な学習法は音読であった。音読よりも黙読のほうが容易く、わたしはついつい黙読に陥ってしまっていた。音読し続けてみて、最近ある本を黙読してみると文章を読む目が思わぬ方向へ向かってしまいやすいことに気付いた。たとえば、ふと油断したら五行くらい読み飛ばすのも容易である。したがって、黙読は読み飛ばす可能性が高いし、音読は一つひとつ立ち止まって、身体に音を振動させながら、またわたし自身が自分の声を聴きながら学ぶことができる。
講師の仕事をしている身として、学びの内容にアンテナを張り続けることは重要だ。そのアンテナを張り続ける手段として、音読が有効なように思われる。教科書を音読しておくと、「ああ、ここにしかじかの記述があった」と身体が覚えている。脳の中の知識は目に見えないから、知識をつかめない。音読は、複数回、身体に通すから学習した知識を掴みやすい。
イタリア語とフランス語は中級や上級の文法書を学習しているが、ドイツ語は表紙がお洒落という理由で選んだ薄い文法書を音読している。しかし、個人的には薄い文法書でも音読してドイツ語を学ぶことの効果を実感しつつある。音読すると、ドイツ語の文法が身体に重なる。ドイツ語の文法が身体に重なるというのは、ことばは音だから、線条的な音が身体と重なる。ドイツ語を音読しているわたしは、ドイツ語の音それ自身だ。
繰り返し音読をすることによって舌や口がドイツ語に慣れる。ドイツ語の口になる。たとえば、verstehen「理解する」というドイツ語を音読すれば、口がそのドイツ語の単語を経験する。口が音に重ねなければ、わたしにとって意味はやってこない。werdenは「しかじかになる」という語、blauは「青い」という語、その音の連なりを舌と口に重ねる。そのことを身体に経験させる。
さて、ドイツ語には格変化があったり活用があるのだが、ことばの形が変わることは、音にしたり文字にすることでようやく、活用や格変化という出来事が生じていることになる。つまり、頭や脳の中では、目に見えていないし、それが本当に活用や確変化なのか判断つかないという点で、格変化や活用は存在していない。
一度、ドイツ語を音読しておくと、頭が覚えているというよりも強固に身体がドイツ語を記憶していることになる。黙読して頭で文字通り覚えると、単語をなかなか思い出せない。「あれ、なんだっけ。」しかし、音読ができると何かしら身体が記憶している。Kannst du Klavier spielen?「きみはピアノ弾ける?」--Ja, ich kann gut Klavier spielen. 「うん、上手に弾けます」という音の連なりを、わたしの身体が経験している。このことは、なんとか読めることに繋がるし、なんとか聞けることにもなる。黙読では、他者のことばをわたしの身体に重ねることはできない。つまり、わたしは文を聞きとれないし読みとれない。
3. ことばがかたちであること、ノートを書くこと
わたしがノートを書くことを真剣に心がけるようになったのは、大学や大学院を離れて社会人になってからだった。当時、母に「社会人になったら常にノートを持ち歩くのよ、頭の中でなんか覚えてられないんだから」と言われて、半ば、受動的なきっかけて書きはじめた。また、当時、コロナ禍というのもあって、わたしは不安や強迫観念におそわれていた(当時は診断は下されなかった)。だから、この不安や強迫観念を乗り越えるのに、わたしがノートを書きはじめることは当然だったのかもしれない。
わたしも普通の学生で、講義のノートは取るのだが、どうも「頭」を過信していた節がある。講義の内容を頭で「ふーん、なるほどね」に留めるような学生だった。また、頭の外のことばと頭の内のことばのちがいすら、朧(おぼろ)げだった。だから、当時のわたしはことばとの学びにおいてなにがなんだかわかっていなかった。
社会人になってある日、部屋を掃除していたら大学時代の個人的なノートが出てきた。このノートの表紙に書かれた主題が『野心ノート』というものだった。中身をのぞいてみると、「修士課程に進学する」とか「いつか語学を教える」などと「野心」がリスト化されていた。今ふりかえると、今が運が良いように思う。結論先取だけど、ノートに自分の目標や夢、無意識を書くと、実現するように思う。
社会人になって、ノートには夢や目標や無意識を綴っていた。わたしは広い意味で先生の仕事をしているので、教え子との関わり、たとえば話したこと、感じたこと、教え子の表情、わたしが感じたことを綴った。こうして他者と対面して感じたことをノートに書くと、他者との関わりが繊細だと思える。そしてノートを書くことでよりよい関係が築ける。また、それが事後になると思い出となる。
社会人になってから四年間、絶えることなくノートを書き続けてきた。このことは、わたしの価値観をグラデーションのように変えていく。いきなり明確な境界として価値観は変わらないのだが、今まえのノートを読みかえすと、価値観はグラデーションに変わっていた。このグラデーションの変化は、本当に、ゆっくりだ。だから、このゆっくりと徐々に変わっていった価値観の変化が愛おしい。
ノートにはどのようなわたしのことばを書いているのか、ここで断片を記す。
24/05/17
「一日に期待しないこと。一日で為し得る読書量には限りがある。だから一日に期待しないこと。10分とか30分のプラスの項の学習時間を設け、少しずつ少しずつ、一日一日と、地に足を着けて歩む。千里の道も一歩から。」
「土を耕すイメージ。一歩ずつ。着実に。資本主義やテクノロジーは他者との比較で知るべきことを増大させる。しかし本当は、学びは自分にしかできない。」
「対話的自己論。他者との対話にも限界がある。有限。だから自分自身で対話し続けること。」
「どすこい精神。ぐっと見据える。楽観的であれ。」
24/05/20
「人間って目の前に幸せがあるのに、幸せをかわす。幸せはふれること。その繊細さあるいはダイレクトさに耐えられないのではないか。幸せではないのに、幸せを装う。「幸せになる勇気」というのは、幸せという繊細さあるいはダイレクトさに向き合えるか否か。」
24/05/23
「自分の課題が山積み。自分のペースで良い。できることができるようになりたい。プライドを鬼低く。バカみたいに。自分の人生。今の私にできることは、文学作品にふれること。深みと質が大切。」
24/05/28
「人に文句言う暇があるなら、我が身を反省せよ。何も言う必要はない。粛々と、黙々と。自分、自秘を大切にせよ。」
24/06/27
「愚直に、地道に。私はこのようにしてしか前に進めない。読書をして、ノートを書いて、一日の振り返りをして、今後の課題をリスト化して。[...] ノートに言葉を書き留めるって面倒臭い。言葉は線条的で、結論を先取りすることもあってはならない。だからチマチマとノートを書き続けるしかない。早く全てがわかりたい、楽になりたい、また同じことの繰り返しの日々か?と思うけど、やり続けなければ、〈異なる可能性〉など得られない。もしここでノートを書いたり読書をするのを止めたら?これから得られるであろう未来の中で失うであろう未来とは?」
24/07/01
「Da cosa nasce cosa. というデザイン論の言葉がある。「モノからモノが生まれる」。普段、私はノート、ペン、写真、小説、書物、エッセイ(プリント)、文字、音というモノとモノを重ねている。同じ文章をワードから手書きに変えたり、手書きをワードにしたりしている。そして変化を掴むということ。異なるモノとモノが出会うとき、変化が生じる。その変化を掴むということ。」
24/07/05
「自分ができることをやりながら、常に準備しながら、生きる。先駆者の努力を素直に努力として認められるようになったら、私は変わるだろう。常に準備しながら生きる。やるべきことはあまりに多い。常に学ぶこと。怠惰の時の速さに私は汚されてはなるまい。頓挫した分だけ、強くなれる。土を耕し、豊かな土壌を育む。話しすぎるな。語りすぎるな。その分、自分の強さが感じられる。一方、私の身体感覚は儚い。また、辛くなる。だからまた立ち上がろう。なかなか美しい花は咲かぬが。」
ノートに書くことば、文字は一度わたしの「頭」から自由になる。だから後で読み返すと「あれ、何を書いたんだっけ」と思うし、当時書いたことば以上のことばがわたしにもたらされる。
文字ということばや言語は、固有の時間を有する。ことばの内の固有の時間を時制という。時制は、ひとつに、時間を表す動詞の形態である。英語には現在形と過去形があり、その意味でじつは未来形はない。willは現在形であり、wouldは過去形である。現代中国語や漢文、インドネシア語にはそういう意味で時制はない。インドネシア語の場合、動詞の形態は変わらないのでsudah(既に)という語で過去の意味を表す。現代スペイン語の接続法(英語でいう仮定法)には現在形と過去形があるが、現代ポルトガル語には接続法に未来形がある。
ノートに文字を書くことは、わたしにとってことばの内で固有の時間を造形するということである。わたしのノート全体でひとつの物語(ここではストーリーではなくナラティブと言う)を作り、固有の時間と歴史を生む。しばらく前まで日常の時間の流れが速く感じられたが、ノートを書くことで時間の進みが遅くなったように思う。わたしにとって、形となったことばを造形することで、固有の時間と歴史が帯びるということ。
ノートを書くことでもたらされることは多かった。ノートを書くことで次のような成果を得られた。それはなりたかったわたしであった。
1. 語学学校にスペイン語講師として採用される
2. 教え子が早稲田大学や上智大学に入学する
3.字がきれいになった
4. TOEIC(Listening & Reading)で805点を取得
5. 多くの出会いに恵まれた
…
4. ことばがかたちであること、そこから複雑な心があること
一般的に、〈ことば〉の定義にはあまりに無頓着だ。ことばは、しばしば「心」とか「意味」とか「脳」とか「本能」的なものと、安易に置き換えられてしまう。ある「ことば」を語る瞬間(とき)、わたしたちは「意味」を思い浮かべる。「あのことばは、しかじかという『意味』だ。」「あの子が使っていることばは、どんな『意味』なのだろう。」
わたしは言語に限定して講師をしている。担当している言語の科目は、英語や国語やスペイン語だ。とくにこどもたちは黙読して「ふーん」と学ぶ。他の講師の解説を少し聞いてみると「この英単語はしかじかという『意味』だから『覚えて』おきましょう。」と。
ことばは「意味」とか、さらには「理解」ととらえられ、いかに速く「意味」を「理解」するかが大切だそうだ。どうやら、ことばの学びは「わかればいい」そうで、わかれば音読も書写も必要がないのかもしれない。
まず、ことばとは形である。この形の存在様式には二種類ある。野間秀樹(2007;2018;2021)によると、音の世界で人間の身体と空気の振動によって形となり聞き手によって意味となったものであり、光の世界で人間の身体で黒い線を実現させ読み手によって意味となった文字である。〈ことば〉であるためには、話し手や書き手がいること、聞き手や読み手がいることが重要である。このことを踏まえると、どんなに土の中に眠っている古代の言語や引き出しに置かれている亡き夫の作文用紙も、読み手が読まなければ未だ〈ことば〉ではない。また、ある公共トイレで鳴り響いている音声も、厳密には人間による〈ことば〉ではない。あれは機械が複製している音である。極めて人間の声と近似的であるが、複製されているという点で人間言語とは言い難い。われわれが既に親しんでいるSNSの音声も文字も、厳密な意味では人間の〈ことば〉ではない。そう考えると、われわれはずいぶんと人間の〈ことば〉から遠ざかってしまった。SNSやインターネットの「音声」や「文字」は〈記号〉と呼ぶべきで、〈ことば〉とは言い難い。(筆者はあるとき、パソコンを使って一生懸命に文章を書いていた。わたしは、その文章が意味を持ち、本当の「書かれたことば」であることを疑わなかった。しかし翌日、パソコンを開きそのテクストをメールに送信すると、そのテクストは文字化けしていた。わたしが書いたことばは文字化けという記号に否応なく(文字通り)化けてしまった。その文字化けは、誰にも読まれないし、〈ことば〉として他者にとって十全に意味は実現しないだろう。)
音の世界と光の世界で形となった〈ことば〉は、いわゆる「内言」とは異なる。じじつ、一言で「内言」というけれど、その内言はジェンダーによる違いはあるのだろうか。大人と子供の内言にどのような違いがあるのか問われない。稽古の芝居で心の内で唱える内言、夢の中で唱えている内言、走っているときに考え事をしている内言、これらはどのような点で同じで違うのか、問われない。この点で安易に「内言」と言ってその存在を信じてしまうのは、〈ことば〉を観る点で、さらには本当の意味での複雑な〈心〉を観る点で、無効にしてしまう。飯田隆(1987:11−12)は言語哲学の観点から面白い指摘をしている。次に引用する。
「未だ多くの人にとって、思考とは、自分の心の中で生ずることである。そして、そうした人々は、自分が何を考えているかは、「内省」という、本人だけに可能な手段によって明らかになるはずだということに疑いを抱いていない。」
「思考についての現代的観点は、こうしたことをすべて否定する。思考とは、心の中で生ずることではない。自分が何を考えているかについて、その本人が特権的な知識を持っているわけでもない。」
「思考は(少なくとも概念的思考は)――もしも概念的以外の思考の形態があるとするならば)、言語を使用する能力を行使すること以外の何ものでもない。したがって、何が考えられているかは、心の中に見出されることではなく、その考えられたことの言語的表現がどのように用いられているかを見ることによって明らかになることである。」
なるほど、現代の言語哲学の観点では意味や思考や心的な「ことば」を、ことばを「心」の中で、「脳」の中で考えている「私」という主体の特権を否定するとのことだ。心というものは、形となったことばによる反省によって、観ることができる。
じじつ、「心の中で鳴っていることば」と言うけど、心の中で鳴っている/ringo/は「りんご」とひらがなだろうか、「リンゴ」とカタカナだろうか、それとも「林檎」と漢字だろうか。また、「雨が好き」とか「飴が好き」と言うとき、「あめがすき」とか「あめ」ではどんな音が心の中で鳴っているだろうか。この「心」という語が哲学的で形而上学的に思われるならば、この「あめがすき」は「頭」や「脳」の中でどんな音が、アクセントが、イントネーションが鳴っているだろうか。
〈ことば〉というのは「頭」や「脳」で語りきれるほどそう単純で素朴なものではない。たとえば、頭の中では/ame/と鳴っているけど、文字にしたときの「飴」や「雨」は音の高低で意味を変える。日本語話者にとって「雨」とか「飴」は、ただの音素の配列/ame/だけではなく、音の高低で意味を変える。このことは中国語も同様で、音素の配列/ma/は声調という音の形によって四種類の意味に変えることができる。(また、「頭」や「脳」の中のことばに方言差があるのだろうか。「頭」とか「脳」の中で唱えることばは、ひょっとすると方言差や言語の多様性を無効にするのかもしれない。)
こうして、ここで明らかになったことは次の事柄である。
ことばは音の世界と光の世界で実現し、聞き手や読み手によって意味となることばである。
一言で「内言」と言うけど、そこに子供と大人の発話の差やジェンダー差、言語の多様性(方言)、具体的に場面ごとの発話の差があるのだろうか。
形となったことばは、音素の配列/ame/だけではなくて、日本語の場合は高低差、中国語の場合は/ma/の四種類の声調によって表現される。
SNSの音声の「ことば」や公衆トイレで流れるアナウンスは厳密な意味での〈ことば〉ではない。あれは機械によって複製された音や記号であり、〈言語音〉ではない。
補足を付け足す。インターネットやSNSにある文字は、厳密には「書かれたもの」ではなく打たれたもの(タイピング)である。このタイピングには、日本語の漢字でいう画数も書き順も存在しない。打たれたことば、タイピングのことばは画数も書き順も身体で線を実現させる繊細な身体性も無効にする。
いつしか本来の〈ことば〉が記号や平面に押しやられ、画数や書き順や繊細な身体性も忘れ去られながら、「心」や「脳」でことばを理解できると思われるようになった。そして、われわれの「心」や「頭」の中で唱えることばを、SNSやインターネットに文字通り打ち込み(タイピングし)、瞬時にコピーもペーストもできるようになった。そこには日本語の高低による飴も雨の違いもなく、中国語の/ma/の四種類の声調もないし、方言差もない。この点でわたしたちのことばは〈記号〉と化した。記号は等価交換が可能である。じじつ、われわれのことばはSNSやインターネット上でコピーもペーストもできる。
交換可能な〈記号〉としてのことばを使うというのは、いわゆる社会の合言葉だけを使って生きるということである。従来、〈ことば〉はその人の個人史があって意味となる。ある〈ことば〉が彼女においては悲しみと苦しみのことばとして意味となる。この悲しみと苦しみは、まさしく彼女自身にしか経験できない固有で代替不可能なものである。しかし交換可能な記号としてのことばは、こうした〈感受性〉や〈身体感覚〉を無効にする。
大切なことは、記号から漏れ出す〈ことば〉にすることである。たとえば、かつて書いた日記やノートを音読する。音読するときの〈声〉は、既に記号から漏れ出してしまっている。このとき、身体に一つひとつの(言語)音が、文字通り共鳴する。この共鳴は、かつて私の周りに実在した現実と身体との文字通りの共鳴である。ここでの〈声〉も〈身体〉も、私のものであり、固有で代替不可能だ。
考えていることを話したり書いたりする。ここには自分でノートを書く、私自身が既に他者であるということ、また聞き手や読み手がいるなら彼や彼女が他者であるということ、そしてこうした形にふれることで、ことばが意味となったり、意味とならなかったりする。話し手や書き手自身(当事者)がよくわかっていないこともありうるし、聞き手や話し手自身もわかっていないことは、大いにありうる。
こうしてことばを形にし、意味となったりならなかったりする過程で、ますます〈心の複雑さ〉が浮き彫りになってゆく。私は話し、書くけど、ますます自分の気持ちや感情がわからなくなってゆく。形にしたことばから、次第に心の複雑さへ向かう。
日常は目まぐるしく変わる。しかし、われわれはそんな実感を抱くことができない。なぜなら、「脳」や「心」は観念に差異をもたらさないからだ。本当は目まぐるしく私を取り囲む現実が変わっている。なのに、気づくことができない。養老孟司(2023:28)は次の興味深いことを述べている。
「だから、いまの若い人が『平家物語』や『方丈記』を読んでも、あの世界観をまったく理解できないのではないでしょうか。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり」とあっても、なんだそれは、ということになってしまう。いまの若者にとっては、諸行無常は抽象的な言葉にしかすぎません。」
だから、差異をもたらし、社会の合言葉から逸れるわたしの〈ことば〉を実現するために、音読をしたりノートを書くこと。それぞれ音読する瞬間は、記号からすり抜ける。記号からすり抜けた〈ことば〉は、わたし固有の意味となる。その意味とは、わたしにとってさし迫った、切実なものである。
最近、私(筆者)自身の心の複雑さが嫌になっていた。なぜなら、私の周りの現実は単純にふるまおうとして、複雑な心を持つことが「おかしい」ように思われたからだ。SNSでは人の心が読めるような言説に溢れ、自分のプライベートをさらけ出す投稿がある。また、「らしさ」を自分自身に当て嵌め、単純化しようとする。人と会話していても、「人それぞれ」とか「わからない」とか「難しい」とばかり言われてきた。けど、ことばにし、ふたたびことばにし、複雑な心であってもいいのではないか。世間的な「らしさ」に当て嵌められない、誰とも重なり得ない、自分自身の複雑さがあっていいのではないか。
私自身が複雑であることを認めるには、自分自身、話したり書いたりすることが大切だし、他者との関わりで「難しい」とか「人それぞれ」と言わずに形としてのことばを交わすことが大切だ。多様にことばという形にし続け、自分自身に「キャラ」や「らしさ」を当て嵌めないで、対話し続ける意志と態度を持ち続けた先に、誰にも見られることのない私の心の複雑さが浮かび上がる。
5. 記号から漏れることばと身体
わたしたちは、近代に生きる者として記号を優位に立たせる。そして〈ことば〉を削ぎ落とし、〈声〉と〈文字〉を打ち消す。その際、わたしたちは身体性も消失させる。
ノートを書き、音読するわたし。考えていることや思考が漏れる。木漏れ陽ということばがあるけど、木の間で漏れる太陽の光は、森を成長させてくれる。現代社会では、ひとびとは過度に他者との対立を恐れてしまい、対話する意志や態度が減ってしまった。たとえば、雑談は互いの漏れであり、漏れは互いが出会うきっかけとなる。挨拶は、その日その日の趙直した互いの身体の緊張を解く。ノートを書いたり音読することも、わたしたちにとっては〈漏れ〉であり、わたしを安心させ、傷を癒やし、他者との出会いを到来させる。わたしたちは、取り零されたことばのかたちを求めなければならない。
6. 参考文献
・飯田隆, 1987, 『言語哲学大全Ⅰ, Ⅱ, Ⅲ, Ⅳ』, 東京:勁草書房.
・野間秀樹, 2008, 「言語存在論試考序説Ⅰ:言語はいかにあるか」, 「言語存在論試考序説Ⅱ:言語を考えるために」『韓国語教育論講座 第4巻』, 東京:くろしお出版.
・野間秀樹, 2018, 『言語存在論』, 東京:東京大学出版会.
・野間秀樹, 2021, 『言語 この希望に満ちたもの:TAVnet時代を生きる』, 北海道:北海道大学出版会.
・養老孟司, 2023, 『自分は死なないと思っているヒトへ』, 東京:大和書房.
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