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「感情に対して素直になれること」が黄金の価値を持ってしまう日が来る前に

僕は今現在、ブラジルに滞在している。北東部のバイーア州にあるサルヴァドールという街だ。正直、ここでの生活にとても満足している。この街に、そしてブラジルという国に魅了されている。

好きな理由はたくさんある。音楽や映画や文学、歴史の興味深さ、宗教、アート、文化の多面性や混じり合い、美しい海や森。でもやはり最も好きなのはここに生きる人々なのだと思う。

ブラジルについて特に日本語で調べていると、良い評判を目にすることはあまりない。多くのブログなどで強調されているのは犯罪の多さや物事が早く進まないこと、生活のしにくさなど、ネガティヴな面ばかりだ。

犯罪に関しては、確かに統計上日本と比較すると数十から百倍の多さらしいので、その数値を否定することもおかしな話。ただ、実際の体験としては、ブラジルに合計で半年くらい滞在している間、危険な目にあったことは一度もない。

何も考えずに貧困地区にズカズカ入らないとか、カメラを四六時中ぶら下げないとか、財布や携帯を外に出して歩かないとか、最低限気をつけていることはある。だけど、巷で言われているようなダミースマホや財布を用意するとか移動はタクシーでしかしないとか最悪の場合は赤信号で止まったらやられるから止まらないとか、そんなことはしていない。

かなり気を抜いてブラブラ歩いていることもあるし、真夜中にランニングもする。映像や写真で表現する人間なので、カメラを外に出して街中を歩き回ることもある。賑わっている通りで外のテーブル席でのんびりジュースを飲むこともある。

周りを見ていれば、みんな一瞬後に殺されるかもしれない不安を抱いているようには見えないし、道を歩きながらスマホをいじっている人もいる。長髪に髭という日系移民にいそうな僕の出で立ちからか、あまり観光客っぽくも見られないのでことさら狙われている感じもしない。犯罪に合うときは合うのだろうけど、常にそれに怯えるような生活でないのは確かだ。

「犯罪でヤバい国」というブラジルに対するイメージは、日本のみならず欧米にもあるし、そもそもブラジル人自身が一生懸命語ることも多い。結果的になのか、これまで主に滞在したサルヴァドールやサンパウロでは、外国人観光客がとても少ないと感じる。聞こえてくるのは99.5%ポルトガル語。多国籍な雰囲気は弱い。リオデジャネイロにはさすがに少しは観光客がいるのだろうか?まだ行けていないので確認したいところ。でも、パリやヴェネツィア、京都、あるいはクスコといった世界的観光地と比べると、現地に存在している素晴らしいものに対して訪れる人の数が少ないのは間違いない。

おかげでサルヴァドールではジェントリフィケーションも進まず、家の前にある目のくらむような美しいビーチを、全く混んでいない状態で毎日何時にでも楽しむことができる。今はAirbnbに長期滞在しているので家賃は割高だけど、現地の人づてに探したら窓から海が見える2LDKくらいの家が10万円以下ですぐ見つかる。東京でもたまに何の変哲もないラーメン屋に異常な外国人観光客の列ができている光景に驚くことがあるが、つくづく、今はイメージの力で人やモノの移動が狂ったように不均衡になる時代なのだなと思う。

僕個人としては、「治安がヤバい」と外から思われていることでサルヴァドールでジェントリフィケーションが進まず、ローカルの生活を堪能できることに感謝している。この街がクスコやオアハカのように世界から「発見」されず、この状態が今後も末永く続くことを願っている。

ただし、サルヴァドールに限らず、ブラジル、あるいは中南米のより広い地域全体から、やがて世界が再発見し、切実に学び直さなければならないことがあると思う。それは「感情を解放する」ことだ。

「中南米で感情を解放」する?要はサンバとサルサだろ?何十年も言われていることの焼き直しじゃねえか!そう思われても仕方ないくらい、よくある話に聞こえるのはわかる。でも僕が思うに、過去数十年の「中南米で解放する感情」論には、どこかで「論理的になれない中南米」や「政治的カオスの中南米」という見下しが紛れ込んでいた。

「我々文明人は発展しすぎて感情が弱くなっちゃったから、ハチャメチャな生活でも楽しく生きていそうな中南米からちょっくら刺激をもらいますか」というグロテスクな余裕があった。

今、欧米や日本など、いわゆる「西側諸国」あるいは「先進国」、「第一世界」、なんでもいい、それに準ずる名前で総称される国々に、そんな余裕はありますか?と僕は問いたい。多分、ないですよね。

生活コスト上昇やら社会保障費がヤバいやら少子化やら高齢化やら、色々考えなきゃいけないことはある。本当にヤバいのは気候変動と環境危機だけどそんなことは考えてられないくらい自分の家が火の車。うんうん、問題は本当に山積みだ。それを一生懸命話題からそらそうとメディアも論客も色んなノイズを挟んできて本質を見えなくしてくるし、XやYouTubeにはゾンビの大群が全然実体を反映していない「世論」をバズらせるために彷徨っている。どうしたものか、と。

これらの問題はそれ自体重要だとして、ここ10年くらいの社会の変化(日本とヨーロッパがメイン)を自分なりに見ていて、もっと根本的な問題だと感じるのが「感情が動かない、あるいは動いても素直になれない」ということ。

おぞましいことだが、電車の中で女性がレイプされているのに目撃者が助けないとか、道で人が死んでいるのに誰も興味を持たないとか、人間に備わった感情がある程度正常に機能していれば起こらないような事例が、いわゆる「先進国」と呼ばれる国々でここ10年くらいで異常に増えたと感じる。

「感情が死んでいる」のは東京について僕が少年時代から思っていたことだし、その面が悪化しているとはいえ目新しいことではない。ただ、もう少し感情に弾力性があったはずのヨーロッパや北米でも感情が死に始めたのがここ10年の大きな変化ではないか。鬱病など精神の不調も特に若年層で爆発的に増え、統計によっては数年で数倍になったりしている。

何か聞いても突き返される。動くべきポジションにいる人が動かない。無関心。グーグルに聞けばわかることは教えない。AIチャットが言えることはわざわざ繰り返さない。社会は異常なスピードで人のコミュニケーションの機微を剥ぎ取り、生産性にとって不必要な会話はアウトソーシングしている。僕は子どもの頃、サッカースパイクのスペックについてアシックスやミズノのカスタマーセンター担当の人を何時間も質問攻めにしていた記憶があるが、そんな呑気なやり取りはどんどんできなくなっている。

生活の中で1分や2分という時間を他人との他愛のない話に費やせない。自分のキャリアや仕事やブランディングにつながらないことは全て遮断する。生き方や働き方が多様になったからこそ、「自分に関係ないことには一瞬も時間を使わない」「有益でない関係は全部遮断する、ブロックする」という態度が常態化してきた。それが実現できるようになってきてしまった。

しかし、その態度が社会を侵食すればするほど、「感情は常に一定」であることが理想とされ、一人前の人間として当たり前のこととされる。嫌なことがあっても「全て最高」と言い続けなければならなくなった。それが引き起こす不具合が、日本のみならず、ヨーロッパや北米でもみるみる大きくなり、顕在化している。

やがて、「感情に対して素直になれる」ことは、黄金の価値を持つようになるのではないか。「清浄な空気」や「暑すぎない場所」が以前は持たなかった価値を持ち始めているように。

もはや、いわゆる「先進国」では、自分の意識次第で感情を素直に表現すること自体が選択肢として奪われ、なんなら犯罪化=criminaliseされ、個人がどう抗おうとしても感情を取り戻すことができなくなり、それが「おかしい」と集団的に思い直すことすらできなくなるかもしれない。そんなディストピアがやってきたとき、最後まで感情を持ち続けるのは、例えばブラジルの人々なのではないか。それまで「犯罪でヤバい」「社会システムめちゃくちゃ」と見下してきた彼らから、そんなことよりももっと根本的な、人間が人間として生きるために他の全てを失ってでも欠かしてはならないものを教えてもらわざるを得なくなるのではないか。

僕は今、表現者の端くれとして毎日の貴重な時間を本の執筆や映画の編集に充てている。それが今の自分にとって最も重要なことで、その進行を邪魔するような要素はなるべく生活の中に入れたくない。意識としては内向的な時期で、今は新しい刺激を求めるよりはとにかく表現を形にしたい。

それでも、道ですれ違う色んな人たちと何気なく目を合わせて挨拶したり、ビーチで駆け寄ってくる子供たちと話したり、住んでいる建物のエレベーターで一緒になった人と軽い立ち話をしたりする度に、僕は彼らに生かされ、救ってもらっていると心底思う。

「感情に素直になる」とは、何も嫌なことがあったらすぐ言葉に出すとか、気に入らないことをすぐに非難するとか、悲しくなったらいつでも泣くとか、そういう話ではない。もっとささやかで、表情の動きだけや一言発する言葉に宿る、「人間として血がちゃんと巡っているか」の度合いの豊かさのことだ。「マナー」とか「人に上手く取り入る」とか、「周りから見てどう」とかではなく、可愛い子どもを見たら優しい表情になり、筋が通らないことが起きたら不満を伝え、楽しいときは身体を揺らすことで、世界と自分の間のバランスが壊れないように、「それ」が「それ」であるように、共通了解を作る地道で高度な作業のことだ。

すでに底抜けに感情豊かな彼らに、僕が注入できるエネルギーは大きくない。しかし、僕が表現するかもしれない感情に対して、彼らなら必ず応えてくれるという絶大な安心感は、僕が彼らと積極的に絡むのか絡まないのかにかかわらず、僕を救ってくれている。毎日パソコンに向き合ってウンウン唸りながら作品制作をしている僕がそれでも人の温かみを感じられているのは、ここに渦巻く情動のおかげである。それがこの街の、このブラジルという土地の途轍もない強さなのだと思う。そして、その強さの価値は今後上がり続ける一方だと、今の世界の動きを見ていると思わざるを得ない。

小さな質問を友だちにするのにも「忙しいなか時間をありがとう」とお礼を言うのがマナーになってしまったこの世界で、小さく、いや盛大に灯っている火の温かみを、今日も僕はブラジルで難しい表情をしながら味わっている。


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