坂本龍一さんを慶珈琲で想う。
大坊珈琲店
カフェ巡りを趣味としていた時期がありました。その中でも入店するのに緊張した店として記憶に残っているのが、表参道の交差点近くにあった「大坊珈琲店」です。その特異なブレンド(豆のグラム数と湯量で5種類に分かれていた)を味わいたくて、ある日、えいやっとその扉を開けました。そのストイックな姿勢からてっきり店内は会話などない静けさが拡がっているものと勝手に思っていたら、最初に耳に入ってきたのは、奥のテーブルの年配の方々の結構な笑い声で拍子抜けをしたのを覚えています。
カウンターに座り「2番で」と告げると、話には聞いていたネルドリップの作業が始まった。まるで武術の「型」のように、一定の姿勢、角度で行われる一連の所作が今も記憶に残っている。そして目の前に置かれたカップからはいい香りが立ち上っていた。これがあの珈琲だ。と感激して口をつける。
しかし「ぬっ、ぬるい・・・」訪れたのが寒い冬の日だったこともあって、聞いてはいたものの、予想以上のぬるさが私と大坊珈琲店の最初の記憶として残ってしまった。とはいえ、2回目からは美味しかったです。
慶珈琲
京王井の頭線の富士見ヶ丘駅のそばに「慶(ヨシ)珈琲」はあります。最初に訪れた時はメニューを見て懐かしくなりました。そこには5種のブレンドが並びます。10年ぶりに「2番で」とオーダーしました。
大坊珈琲店に8年間務めた方が独立して構えたのがこのお店で、我が家からは徒歩20分ほどの散歩圏内にある。ある時、他にお客さんがいないこともあり、『私は常連などではなかったが大坊珈琲店に行っていて、2番が好みだった』と話しはじめると、店主さんが故郷岩手から押しかけるように大坊さんの元へ働かせてもらいに来た話をしてくれた。私も設計事務所に勝手に押しかけて働かせてもらった口なので、なんだか勝手に親近感が湧きました。
とにかく珈琲が美味しい。一杯にこれほどの満足感があるのかと毎回思います。
BGM
最近、慶珈琲に行くとBGMが坂本龍一さんである。座った目の前には教授の追悼号であるミュージックマガジンが置いてあるから、たまたまではなくそのセレクトは追悼のようだ。この日は深い味わいの1番のブレンドを飲みながら、もう教授の新作は聴けないんだなと思うとしみじみと寂しくなった。
こうして幾度か、教授の美しいピアノの旋律を聴きながら珈琲を飲んでいると、不思議と音と味わいが重なってくる。風景に音が重なり記憶されるように、味わいに音が重なる経験は初めてだと思った。音楽にも感動していて、その珈琲にも同じようにそのことを感じていないとそれは重ならないのではないかと思うと、いっそう一杯の珈琲に奥深さを感じた。
いつも決まって、『美味しかったです』といって会計を済ませるけれど、本当はもっと別な言葉で伝えたい。ただ他のお客さんの手前、ごく無難な言葉で伝える自分をちょっと小さく思う。せめてと目を見て言っているが、伝わっているだろうか。
こういう仕事をされる人が好きです。自分の色をもって仕事をしている人。
静かに自分の道を進む人―。