300までは生きていたい。できれば1000歳くらいまで

 渡されたフリップに「長生きしていたい」と書いたと思う。
「どれくらいまで?」
 と問われるので、
「とりあえず300くらいまで……」と答えるとインタビュワーは2秒ぐらい絶句して「かつて300歳まで生きた人類はいないと思いますけど……」と曖昧に笑った。素人なりの冗談だと思われたのかもしれない。
 悪いけれども自分は本気だ。いや、正確に言うと少し控えめに申告していた。本当は1000歳までは生きていたい。

 これは自分が21になる少し前にちょっとしたテレビのインタビューを受けたときのやり取りだった。たしか朝のテレビ番組で、最近の新社会人は何を思っているのか、とかそういう取材で将来どうなっていたいとか、願いみたいなことを訊かれたんだと思う。かなり前のことなので記憶が曖昧だ。

 前に地震が怖いという話を書いたときに触れたけど、死ぬということをたぶん世間の人より怖がっている。

 恐怖症と言うほどなのかは診てもらったわけではないから正直分からない。死んでしまうことに毎日思いをはせてしまうけど、慣れているところもあるので目の前のことが手につかなくなる、というほどではない。日常的に不安にはなるけれど、生活に支障をきたさないようにはできている。

 何故怖いのか、というのを考えたときに、起きることがあまりにも未知すぎる、ということが挙げられる。普通に考えて存在そのものが消失するって想像できなくない…? 
 とはいえ正確に理解できたとして、それはそれで別の絶望に変わるだけという予感もあり、知らないほうが幸せなのかもしれない。結局のところ死んでみなければ分からない。死後ももし思考が残るのならばそこまで怯えないのだがおそらくそうはならないだろう。
 死んだことがないので不安で仕方がない。

 300まで生きたいとか1000まで生きたいとか、欲張って無限に生きていたいとかそういったことを人に話すと、「そんなに生きて何するの?」といったことを言われることがある。
 やることは無限にあって、まあ本を読んだりゲームをしたりは当然するだろうけど、寿命が長ければそれだけリスクを取った挑戦もしやすいし(健康寿命も長いという前提とする)、やれることの質が違ってくる。
 1000歳まで生きられるなら、ある程度蓄えを作ったら5年くらい仕事を休んで競技MTGやLoLやTwitchを頑張ってみるとかしても面白いだろうし(フォローよろ )、何か多少失敗しても人生全体への影響はかなり抑えられると思う。
 時間を気軽に浪費できてきっと毎日楽しい。人生100年時代とは言うけれど、やはりそれでは短すぎる。

 いつか必ず死ぬだろうということに絶望してはいるけれど、希望を感じる要素もある。ほんの2、30年ほど前まで自分は存在していなかったけれど今こうして生まれて思考し、生活をしている。無から"自我"が生まれたようにしか思えない。
 そう考えると、死んだ後も"何か"が発生する可能性が0とまでは言えないんじゃないか? あわよくばまた"自我"のような何かが発生するなんてこともあるのでは? なんて思うこともある。もしそうならば、その可能性は福音かもしれなかった。輪廻転生なんて信じているわけではないけれど……
 人はこうやって宗教に目覚めたりするんだろうか。

 信仰心の欠片もないので、祈る代わりに楽しいことで不安を塗りつぶして生きていくしかなさそうだ。とりあえず朝食に食べたポトフがおいしかったので、今は気分がいいし不安もない。おいしい食事は恐怖に効く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?