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なぜ台湾雑貨屋になったかというと⑤
両親に頭を下げて援助をしてもらい延長した台湾生活。
良き友人たちにも恵まれて、語学方面もそこそこ伸びて行き、という穏やかな良き日々を過ごしていました。
今でも通っていた政治大学の景色だったり、まずいコーヒーチェーン店で長話をしたり、貧乏学生で100元以上のご飯には抵抗があったこと、臭豆腐がおいしく感じるようになったあの日などを、時折ふわっと思い出して懐かしくなります。
…そして見えてきた最終学期。
私はあるチャレンジをしました。
それは奨学金をもらってもう一年台湾に残ること。
チャレンジの理由はいろいろあるけれど、なにより「修士論文」が1年前と比べてほぼ進んでいないという事実がありました。
復学すると4か月後には論文提出。
どうにもこうにも仕上げるのは無理。
つまり「戻る」=退学を決意する、もしくはもう一年休学するというふたつにひとつの選択肢でした。
退学して逃げちゃおうかな、という気持ちがなかったわけではありません。
留学を一年延ばしたからといって論文が書ける保証もありません。
「留学を伸ばすのはただの逃げだ」と同時期に中国に留学した後輩にも強く言われたりしました。
でも私は、台湾で論文を書き進めたいと思いました。
「楽しかったけど半端に終わったな」という留学にはしたくなかったのです。
決めるまで時間がかかるけど、決めると突き進めるのが、多分わたしの良いところ。
奇跡的に奨学生に選ばれて、台湾政府からお金をもらいながら語学学校に通えることになりました。
学校を変えて、授業の前に1時間半ほどの予習復習。
授業の後は基本的に研究。
これ、と決めた息抜きの時間以外は夜間も史料とにらめっこ。
約1年ぶりに取り組んだ史料の読み込みは、留学の成果もあり格段に速くなっていました。
A先生の言った通り、留学は論文の役に立ったのです。
台北で半引きこもり研究・論文執筆生活を続け、A先生にすらちょっと怒られ、あきれられながらもさらに3か月滞在を延長し、私の2年3か月の台湾留学は驚くほど地味に終わりました。
帰ってからは台湾にいた時以上に机にかじりつき、先生に指導を仰ぎながらなんとか論文提出。
審査の教官にボコボコにされながらも口頭試問もクリア。
覚えてないけど発表会もクリアして憧れの「修了」が決まりました。
4年も居座ってしまったけれど、A先生の研究室の初の院生をなんとかドロップアウトせずに終えることができたのは私のひそかな自慢です。
ちなみにA先生は、私に博士課程に進むことを進めてくれましたが、私にその気は皆無でした。
単純に論文を書くのがしんどいというのもあるけど、当時研究室には1年の時からこの道に進むと決めて研究室にいるS子ちゃんや、琉球史をやるために京都からやってきた見るからに賢いK君という後輩がいて、私はこのふたりみたいにできないと悟っていました。
今現在、ふたりとも収まるべきところに収まっていて、やはり賢く、私はA先生のお誘いを断ってよかったな、と今でも思います。
修了も決まり、いよいよ就活を!と遅ればせながら仕事探しを始めてから間もなく、当時台湾の沖縄県人会会長だったSさんが連絡がありました。
「沖縄の観光の機関が台湾で働く人探してるらしいけど、興味ある?」
唐突に聞かれたその瞬間に、私の運命はまた台湾に引き戻されていくことになったのです。
きっとあと2回くらいで終わるはず…。
なぜ台湾雑貨屋になったかというと①
https://note.com/akikoueno/n/n3047ab953b43
なぜ台湾雑貨屋になったかというと②
https://note.com/akikoueno/n/n7c301e2d5368
なぜ台湾雑貨屋になったかというと③
https://note.com/akikoueno/n/nb611fd7b7310
なぜ台湾雑貨屋になったかというと④
https://note.com/akikoueno/n/n1a76dab3d5c9