なぜ台湾雑貨屋になったかというと③

もうひとりいる歴史の教官がちょっと苦手、という理由でA先生の研究室を選んだ私。

ゼミの時間は、4年生は卒論の進行状況発表、3年生は卒論の題材を探したりする下準備期間でした。

当時3年生だった私は、いくつか興味があるテーマを発表し、(多分。すでに失念。)その中でたどり着いたのが「日本統治後の台湾と沖縄のかかわり方。」

台湾のたどった歴史と、沖縄の歴史に共通点を感じていたこと、祖父母が台湾にいたことが、テーマを選ぶ上で大きく影響していたと思います。
沖縄県人の台湾からの引き揚げをメインテーマにして、戦前、戦中と台湾にいる沖縄県人がどのような経緯で台湾に渡ったのか、戦後どうなったのかを研究し始めました。
4年生になっても就活もせず、ひたすら論文を書いていました。(うちの学科は就活する方が珍しかった稀有な学科でした)

論文提出締め切りの数日前に、なんとか論文を形にして提出。

卒業単位もしっかりとれているし、後は卒業を待つばかり…。

本当は「もう少し掘り下げしたかったな。」という気持ちを押し殺して、時間を過ごしました。

急転直下で大学院受験を決めたのは締め切り前日でした。
友人と飲んでいて、胸の内を話すと「人生1回だからやりたいことやれば」という趣旨のアドバイス。

誰かに背中を押されたかった私は、押されたことをいいことに、家に帰り願書を書き始めました。(もちろん途中で寝たけれど)次の日の午後、なんとか願書を書きあげて、受験料を集めて、大学へ。途中で撮った証明写真は昨日のお酒のせいか、いつもよりむくんでいる気がしました。(たしかそのまま学生証になった気がする)

締め切り直前にとりあえず書類提出。

事後報告になったものの、A先生は好意的に受け止めてくれました。
父と母はもう完全に心底あきれていて「好きにしなさい」「援助はしません」とのことでした。
なんだかんだで援助してもらった気もするけど。

私の実家では、今も「おねーちゃんがやらかしてるから、耐性がついてあとの子は何をするのも比較的楽だった」という空気があります。
長女でやらかし系。なんといういい響き。

大学院は楽しい半分、地獄半分。
何が地獄かというと「なまけないように自分の意志と戦う地獄」「戦っても研究全く進んでない気がする地獄」「自分の専門外の講義も専門的なのでちんぷんかんぷん地獄」「講義の課題が多すぎる地獄」など。

卒業論文を書いたといってもしょせんたかが卒論1本。研究者の卵になるための論文とはわけが違ったぜ、と嘆いても後の祭りでした。

そして大学院も2年目に突入。
正直、まったく修了できる気がしませんでした。

思ったよりも進んでいないというか、どこまで進んでいるのかも分からない迷子状態。一次史料(その時代にその時の言葉で書かれた文書資料のこと)を読む力も乏しくて、今思えば、完全に大学院生失格でした。

これは本当に厳しいと悟って、おそるおそる先生に相談。
先生は厳しくして学生に泣かれたトラウマからか、それ以来どんな時もやさしく接すると決めているそうで、そのせいかこの時もとてもやさしく具体的なアドバイスをくれました。
そして先生がつぶやいた「あきこさんはね、中国語が読めたらね、もっといい論文が書けるはずなんだけどね」という言葉。
おそらくこれが先生の本音なのだろうな、と思いました。

それからしばらく考え、たどり着いたのが「台湾へ行こう」でした。
「今のままがだめなら中国語が読めるようになろう!台湾に行こう!借りてる育英会のお金はこういう時のためにあるんだ!」

なんという短絡的思考。今思うと、閉塞感からの逃げたいという気持ちが強かったのかもしれません。実際に「逃げだ」という人もいました。
中国語から逃げ続けて5年と少し。
私は閉塞感から逃げるために、中国語と向き合うことになったのでした。

え?両親の許可?
「どうせ反対してもいくでしょ」ってめっちゃすんなりでしたよ。
さすが、長女なのにやらかし系。でしょ?

さらに続く。前の回はこちらから。

なぜ台湾雑貨屋になったかというと①
https://note.com/akikoueno/n/n3047ab953b43

なぜ台湾雑貨屋になったかというと②
https://note.com/akikoueno/n/n7c301e2d5368






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