なぜ台湾雑貨屋になったかというと④
中国語が全然しゃべれないのに台湾留学を決めた私。
同じゼミの院生に中国語学校をしているゼミ生(社会人・友人)がいて、その友人に助けてもらい書類をそろえて提出しました。
自分の力だけでは書類を完成させるのも厳しかったかもしれません。
普通そういう人は、代行業者にお願いして申請します。もちろん費用が発生します。
困っていると助けてくれる人がいる。そういう意味では私は本当に人に恵まれています。
ちなみに現地で部屋を探すときは、指導教官のA先生のゼミに留学していた台中在住の友人が、わざわざ台北まで出てきてくれて手伝ってくれました。
みんなやさしい。私も人にやさしくありたいと思います。
さて、台湾で初めて借りた部屋は、予算の都合でもちろん風呂トイレ共同のシェアハウス。
6畳くらいの大きさにタンスと机とベッドと棚あり。これまた共用の洗濯機が家のベランダにありました。水道、電気は家賃に込み。ガスはプロパンで、人数割りで支払いでした。
同じくらいの広さであろうお隣には大学生の女子が二人で住んでいて、こんな狭い部屋をふたりでさらにシェアしていることに驚いたものでした。
…そして始まった授業。
私は中国語ができないはずなのですが、なぜか明らかに自分の実力以上のクラスに割り振られてしまいました。
なんと、中国語学科から留学してきた子より上のクラス。
ありえません。
史料などでなんとなく中国語に接することが多かったからか、オリエンテーション時「とりあえずそれっぽく書いてみよう」と書いたテストがそこそこ意味が通る作文になっていたのだと推察します。あっはは。
まあ、もちろん救済制度的なものもあって、最初の1週間?程度は他のクラスの授業にも行けて自分にあうクラスを選ぶことができます。
割り振られたクラスの授業は全然聞き取れないし、ペア練習の時ロシア人の青年には、あまりにへたくそすぎてイラつかれるし、先生もやんわり下のクラス行けばっていってる気がするし、もうひとつレベルを落としたクラス行く気満々。
実際に体験したら、もう一つのクラスの方が楽しかったんですけどね。
でもよぎってしまったんです。たった半年しかいないのにそれでいいのかなって。
私の目標は当時の公文書を原文で読めるようになること。
だったらどうにか今のクラスに食らいつくべきなのではないかと。
電子辞書を取り出して、「私は半年で帰るので時間がない、今のクラスでがんばりたい、足りないところは自習します」という内容の中国語を作りました。
そして先生の所に行って、必死でそのことを伝えました。(先生たちは英語はできます。私が英語を喋れなかったので中国語で話すしかなかったのです)
先生は私のクラス残留を許可してくれました。元軍人で、授業にも迷彩服着てくること多かったな。Z老師。穏やかないい先生でした。
「お前の名前中国語で響き良くないからニックネームにしたほうがいいぞ」って教えてくれたのも先生でした。
ちなみにもろ下ネタ系でした。それ以来、中国語読みで呼ばないように伝えることにしています。
その後は必死。授業の予習をして、復習をして、そしてすっ飛ばした教科書を自主学習。
でもその甲斐があって、3か月たって最初の学期が終わるころには授業についていけるようになったのでした。
そして同時に、半年じゃ全然足りないことを悟り、両親に頭を下げお金を借りて滞在を1年に延ばしたのでした。
ついでに察しの良い方はお気づきかもしれませんが、論文には全く手つかずなのでした。
さらに続く。前の回はこちらから。あと2、3回で終わるかな…。
なぜ台湾雑貨屋になったかというと①
https://note.com/akikoueno/n/n3047ab953b43
なぜ台湾雑貨屋になったかというと②
https://note.com/akikoueno/n/n7c301e2d5368
なぜ台湾雑貨屋になったかというと③
https://note.com/akikoueno/n/nb611fd7b7310