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「躾」と「内発的動機付け」は両立するのか

最近悩んでいることに関連して、お薦めしたい二冊の本について書く。

悩みについて、詳細はこちらの記事を。

一言で言えば、子どもの創造力や想像力を育むための活動と躾が両立し得るのかどうか、悩んでいる。

この二冊の本がこの悩みへの答えを導いてくれるはずだという直感があった。

『「わかりあえない」を越える』 マーシャル・B・ローゼンバーグ著

日本語では「非暴力コミュニケーション」「共感的コミュニケーション」と訳されるNVC(Nonviolent Communication)について、さまざまなリアルな対立場面で著者マーシャルが実践している事例とともに紹介されている本。

NVCという「平和の言葉」を使うための文法として、「観察」、「感情」、「ニーズ」、「明確なリクエスト(要求・お願い)」が不可欠であることが紹介された上で、こんな事例が紹介されていました。

たとえば、ワークショップの2日目に、ある母親がこんな話をしてくれました。
「マーシャル、わたし、さっそく昨日の晩に家で試したんですよ。でも、うまくいきませんでした。」
わたしはこう促しました。
「じゃあ、その経験から学んでみましょう。あなたはどんなことをしたんですか?」
その母親は、自分の望みどおりのことをしなかった子どもに、どんなふうに話したかを披露してくれました。前日に教わった文法を完璧に使っていました。きわめて明確な観察をもとに、自分の気持ちとニーズとリクエストを伝えたのに、子どもは応じてくれなかったそうです。
「うまくいかなかった、とは、どういう意味ですか?」
「だって、あの子は、わたしの求めていることをしなかったんですよ」
「ああつまり、お子さんがあなたの望むことをしなかったから、うまくいかなかった、と定義しているわけですね?」
「そうです」
「なるほど、それはNVCではありません。文法を使っていたとしても、そこが本質ではないのです。昨日のわたしの話を覚えていますか?NVCの目的は、思いやりをもって喜びから与え合うことが可能になるようなつながりの質を、相手との間につくることなんです。単に自分の求めているものを手に入れるだけが、目的ではありません」
(中略)
リクエストに応じさせることに固執していると相手が感じた場合、やり取りの本質が変わってしまいます。その瞬間、リクエストは「強要」に変化するのです。

『「わかりあえない」を越える』第II部 5 共感をもって他者とつながる

躾というのはなんだろう。それは、リクエストとも言える?教育?それとも強要?

学校という場で、学校や先生の側から、生徒にこのように振る舞ってほしいという「リクエスト」があったとして、そこにある「学校と生徒」「先生と生徒」という関係性が上下の関係なら、生徒に選択の余地はなく、強要になってしまうことが多そうだ。そこにコントロールの意図がある限り。

ここまで書いて、「でも学校なんだから、先生なんだからコントロールするのも仕方ないよね。そのコミュニケーションはNVCではない、のはわかったけれど、いつでもどこでもNVCができるわけではないよね。」という声も、自分の中から聞こえる。

わたし自身のことを考えれば、コントロールされるのは大嫌いだ。子どもの頃、生徒だった頃を振り返れば、どちらかと言えば、先生の喜ぶようなことをしようとする「良い子ちゃん」だったことを思い出すが、高校生ぐらいからは、強要されていると感じれば反発の気持ちが沸いたのも思い出す。

人を伸ばす力ー内発と自律のすすめ エドワード・L.デシ著

コントロールされることが嫌い、というところで思い出したのがこの本。だいぶ前に、成人の人材育成や動機付けに興味を持っていた頃に熱心に読んだ本だ。当時、本のレビューも作ってあったので、それを参考にしながら改めて読み返してみた。(特に気に入った本はレビューを書いておくと、将来の自分の役に立つ!)

この本ではパズルゲームを使った心理学的な実験を通して、金銭の報酬で人は動機づけられる一方「内発的動機づけ」は低められた例があげられている。

また、金銭だけでなく、「脅し」「締め切りの設定」「目標の押し付け」「監視」「評価」「競争」なども、内発的な動機付けを低める、つまりパズルを解くおもしろさや楽しさは損なわれることが証明された。

今まで提示してきた一連の研究結果は興味深いものではあるが、一方でわれわれをとても不安にさせる。なぜならば、内発的動機づけを低めることが示されたこれらすべてのことがらは、われわれが日常生活でよく出会う出来事ばかりだったからである。

『人を伸ばす力ー内発と自律のすすめ』p.43

しかし、これはそう単純なものではないとも紹介されている。内発的動機づけを低下させないやり方で報酬を提供することも可能だというのだ。報酬を与える人の意図や態度を通して、相手をコントロールしようという意図は伝わってしまう。その統制の意図や心理的圧力が、内発的動機付けを損ねる原因になるという。競争についても同じで、勝つことへのプレッシャーを与えずに単にベストを尽くすことを励まされた場合には、競争が内発的動機づけを低下させることはなかったという。

そして、わたしの直面している問題である「躾」と「内発的動機づけ」は両立するのか?という疑問に直接答えてくれる記述もあった!

目標や構造を定め、制限を設定するなどのことは、たとえ好まれないとわかっていても、学校や組織、さらには文化においてはしばしば重要である。たとえば、お互いに絵の具を投げつけあう子どもをそのまま見過ごしたり、仕事中に気ままに出歩く人を黙認することは適切でない。
(中略)
他者の自律性を支えるということは、他者を統制することの対立概念であるが、それがほんとうに意味していることは、他者の視点で考え、他者の立場に立って行動できるということである。他者の自発性やチャレンジしようという気持ち、あるいは責任をもとうとする姿勢を積極的に励ましていくことを意味しているのである。そう考えると、制限を設けることも場合によっては必要あろう。ただし、プレッシャーを与えるのでなく、励ますことによって自律性が支えられるのだということを忘れてはならない。

『人を伸ばす力ー内発と自律のすすめ』p.56

そう、それは可能なのだ。「〜すべきだ」「〜ねばならない」という外からの圧力や賞罰を使わなくとも、自律性を支えることはできる。いや、そうではない。「〜すべきだ」「〜ねばならない」という外からの圧力や統制を手放してこそ、自律性は支えられ、励まされるのだ。

「自分の望むことを相手がするなら、その理由はどのようなものであってほしいのか」

デシ先生からも「制限は設けつつも、自律性を支え励ますためのコミュニケーションはあり得る」と言っていただいたところで、再びNVCの本『「わかり合えない」を越える』に戻ろう。先に書いたわたしの感想に似たような、ある母親の意見が事例として紹介されていた。

たとえば、わたしのワークショップでこんなことを言った母親がいます。「でも、マーシャル、神聖なエネルギーにしたがってこちらのリクエストに応じることを相手に期待するのは素敵だけど、子どもはどうでしょう?子どもは、まず、『しなければならないこと』や『するべきこと』を学ぶ必要がありますよね」
この善意に満ちた母親は、わたしが最も破壊的と思う2つの考え方を使っていました。それは「〜しなければならない」と「〜するべきだ」です。子どもにも大人と同様に神聖なエネルギーがあるということを、彼女は信じていませんでした。人は、懲罰の恐れからではなく、互いの幸せに貢献するという喜びから行動を取りうるということを、信じていなかったのです。
(中略)
NVCでは、「神聖なエネルギーから出発するものでないかぎり、行動しないようにしよう」と提案しています。

『「わかりあえない」を越える』
第I部 3 人生をよりすばらしいものにするには

NVCの目的は、「思いやりをもってお互いに与えあえるような質のつながりを生むこと」だという。懲罰の恐れや、報酬の期待でなく、互いの幸福に貢献する喜びから行動すること。これは、場所が学校でも、相手が子どもでも当てはまるはずだ。子どもは大人以上に、とても純粋にストレートに「相手の幸福に貢献する喜び」を感じられるのかもしれない。

子どもたちが自律的に成長することを、真に支え励ますためには、報酬と罰をコントロールのために安易に使うことや「〜しなければならない」「〜するべきだ」からは離れ、それぞれの子どもの内発的な動機に目をむけ、お互いの幸せに貢献する喜びを見出せるような関わり方をしたい。

自分の内側も学校の現場も、当たり前のように「〜しなければならない」「〜するべきだ」に覆われている中で、そこから離れるなんて、そんなのできるのかしらと、やってみる前から自信を失いそうになる。でも、子どもたちが希望をもてるような将来のため、NVCの基本的な問いのひとつである「人生をよりすばらしいものにするために何ができるのか?」への答えとして、それに取り組みたいと思う。

『「わかりあえない」を越える』は、2021年12月8日に発売される。興味をもたれた方は、こちらの関連記事もぜひご覧ください。


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