【奄美大島で視覚障がい者の母と広告制作会社をやりながら暮らす話②】加計呂麻島から奄美大島へ来たなりゆき
母の病気の内容、私自身の軽い自己紹介などの前回の記事はこちら。
前回は母の病気、黄斑ジストロフィ(指定難病301)についてを書いていたら記事が終わってしまいました……。
では、今回は何故、「視覚障がいを持つ母と加計呂麻島から奄美大島に引っ越して広告制作会社をやりながら暮らすことになったのか」を書きたいと思います。
母の病気を知ったのは2019年。私はその頃、鹿児島県・奄美群島の加計呂麻島(かけろまじま)という島に住んでいました。
鹿児島県の奄美大島南部の古仁屋(こにや)という町から船で約20分、人口1000人ほどのいわゆる離島の中の離島、と言われる島です。
当時でもう加計呂麻島に住んで7年が経過していました。
そんなある日、久しぶりの母からの電話で、病気のことを聞いたんです。
難病であること、現在は治療法がないこと、徐々に症状が進行していくこと。
前回、ご紹介した難病情報センターのページにも、
とあります。
が、治療法がなく、せいぜい年に1回症状が進行していないかチェックをするぐらいしか今のところ出来ることがない状態は、ある意味、離島暮らしには向いているんです。
離島暮らしでも難病の母と暮らせる理由
離島は本土から海を隔てた場所である以上、医療体制が陸続きの場所よりも整っていないことが多いもの。
私が当時住んでいた加計呂麻島には週に数日開く病院が一軒あるだけで、眼科もありませんでした。
しかし、元より治療法がない病気なら、ちょくちょく病院に通う必要はありません。そういう意味では、のどかで景色がいい離島は、母と暮らすのに向いているところもあります。
母は、その当時も何度か加計呂麻島に訪れていました。
「周りの人も親切で、いいところだったし、今はまだ大丈夫だけどそのうち一人で暮らすのは難しくなるから年金が入る65歳あたりには晶子と一緒に島で暮らしたいと思っている」
母はそう言い、私は「わかった」と答えました。
東京に戻るという選択肢
「東京に戻るって選択肢はなかったの?」
という風にもよく聞かれます。
実は、私も悩みました。
私「でもさ、お母さんは島に住みたいの? 東京に戻って来てほしいとかないの?」
母は秋田県出身ですが、18歳の時に上京してもはや東京暮らし40年以上。また、私が住んでいる奄美群島は、亜熱帯気候の南国です。何度か遊びに来たことはあると言えど、母にとっては気候も文化も風土も馴染みがないものでしょう。
ただでさえ見えにくくなった生活にプラスして、慣れない場所で暮らす不安もあるはずです。
そう思って言った私に、母はこう答えました。
母「あんた、戻ってくる気あるの?」
私「ないねー」
そんな風に答えた私ですが、母がどうしてもと言うなら、東京に戻る選択肢も考えるつもりでした。
しかし、自分の気持ちとしてはどうにも気乗りしませんでした。
加計呂麻島での暮らしがとても気に入っていたからです。
そして、その話から3年後。いよいよ、私は、奄美大島で、母と暮らすことになります。
なんで加計呂麻島から奄美大島へ? ていうか、広告制作会社の話は?
と、またしてもそこまでたどり着けなかった今回。
次回こそ、タイトルの視覚障がい者の母と離島で広告制作会社をやりながら暮らすことになった話の全部を説明したいものです。
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【今日のつぶやき】
加計呂麻島での暮らしへの恋しさのあまり、今回は以前の写真多めです。ようやく母との暮らしも落ち着いてきたので、ちょいちょい加計呂麻島にも遊びに行きたいものです。
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