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【奄美大島で視覚障がい者の母と広告制作会社をやりながら暮らす話③】加計呂麻島から奄美大島へ来た理由


加計呂麻島から奄美大島に来た理由



第一回目の記事はこちら。


第二回目の記事はこちら。

さて、前回まででは、母が島に来たいと言っている、という話で終わりました。

当時の私は奄美群島の加計呂麻島在住。
そこから紆余曲折ありましたが、現在は同じく奄美群島の中の一番大きな島、奄美大島で母と一緒に暮らしています。

先日の夕日がきれいな日、現在の家から車で15分ほどの場所で伸びをする母。


加計呂麻島での暮らしがとても気に入っていたのに、何故、奄美大島に引っ越すことにしたのかをまずはお話しようと思います。

インターネット回線への不安


2021年当時の加計呂麻島では、まだ光回線がありませんでした。整備は進められているものの、なかなか工事が進まず、いつになるかわからない状態でした。

私はもともと、東京で雑誌のライターの仕事をしていて、そこから小説を二冊出し、加計呂麻島に移住しました。加計呂麻島でもライター業を継続して行っていて、それまでの9年間、私は携帯のテザリングで仕事をしていました。

といっても携帯の電波も悪く、大きなデータのやり取りをするときは、光回線が通っている船で約20分の奄美大島のカフェで仕事をすることも。

加計呂麻島に来たばかりの頃の1枚。
作業環境は抜群なのですが、どうしてもインターネットが遅かった……。


それができたのは、私の仕事が文章がメインで、デザインや高画質な写真などをやりとりすることがあまりなかったからです。

しかし、母と暮らすなら、容量が多いデータをやりとりすることが必須の広告制作会社を一緒にやることはマストでした。

ここで何故、母と私が広告制作会社をやることになったのかを説明しますね。

広告制作をずっとやってきた母


母は18歳で秋田県から上京し、本や雑誌を作る編集プロダクションでアルバイトをしていました。もともと本が好きで編集者になることを夢見ていたものの、20歳の時に私を妊娠。その後、しばらく専業主婦をしたあとに都内で広告制作会社に入社しました。

ちなみにその時の母は社会経験がほぼなかったので、履歴書にプライベートの家族写真から切り抜いたピースサインをキメた写真を貼って出したようで……。

奄美大島の居酒屋にてウミガメの置物と母。
20代の時の履歴書にもこういうノリの写真を貼ってしまったのかもしれません。


「今思えばよく受かったと思う」
と自分でも言っていました。

それから、いくつかの会社を経て、母はフリーランスで広告制作の仕事をするようになりました。そして、母が58歳の時、長年の取引先の広告制作会社の代表の方が引退することになり、母が会社を引き継ぐことになりました。

仕事を続けることを最初は諦めていた母


病気の話をした時に、母は「仕事を続けることがだんだん難しくなっている」と言っていました。

広告制作の仕事は、細かい文字を読んで確認をしたり、修正をしたりする作業がつきものです。
また、会社をやっているので取引先への見積書、請求書、領収書を出すなどの必須かつ間違えてはいけない作業があります。

作業としては非常に簡単。ですが、「文字が見えない」状態だとかなり難しいものです。

宝島にて、会社の今後を話す



移住をする前の2023年11月。母と私は奄美大島から船で3時間ほどの宝島に旅行に行きました。

人口100人ほどの宝島では、海が見える絶景の場所に牛が放牧されている牧場がありました。

鹿児島県・吐噶喇列島の宝島の雄大な牧場にて。


そこで、私と母は長い話をしました。

私「でもさ、仕事辞めることないじゃん。私が手伝えば続けられるじゃん」

そう私が言うと、母は目の覚めたような顔をしていました。

同じ文章に関わる仕事をしていますが、広告制作とライターの仕事はかなりの違いがあります。母は化粧品、健康食品などの通販関連のパッケージからDM、商品に附属する説明書やパンフレットなどの制作が得意でした。

母が今まで手掛けた仕事の一部です。
全日本DM大賞という日本郵便主催のダイレクトメール(DM)に関する賞も以前受賞しました。


私は雑誌では女性誌の読み物記事をメインに仕事をしていて、ほかは小説やエッセイやコラムを執筆していました。

私が東京に住んでいた時代に出した二冊の小説。

このふたつは同じ文字にかかわる仕事といえど、かなり違うものです。

しかし、私は、今、母ができない文字に間違いがないかのチェックや、見積書、領収書、請求書の発行はできます。

私「目のことがあっても一緒にお仕事してくれる方がいたり、長いお付き合いの取引先もあるんでしょ。何より、お母さん、仕事が好きじゃん。もったいないよ」

そんな話を経て、母は仕事を続けていくことを決意しました。

コロナ禍の加計呂麻島と奄美大島


そして、2024年6月から、母と私は奄美大島で暮らし始めました。

数年前、母の病気のことを知ってから私もずっと悩んでいました。インターネット回線に不安が残り、かつ、かなり古い物件しかない加計呂麻島で母と暮らすことができるのか。

都会に比べると住みづらさがあるのは加計呂麻島ですが、
何にも代え難がたい美しさと心地よさが確かにある場所です。


加計呂麻島を離れたのは、当時、コロナ禍で離島の中の離島・加計呂麻島では、高齢の方が多いため、移動することがなかなか難しかったからがまずあります。母に何かあった時に出かけることが出来ないのは、なかなか厳しいと思ったのです。

加計呂麻島は約人口1000人ほど。しかし、奄美群島の中で一番大きい奄美大島は人口5万人ほど。

加計呂麻島は超高齢化が進んでいる場所。そして、人びとが親切な分、ご近所付き合いも密で、かつ前回も書いたように医療機関がほぼありません。コロナに対する警戒心はかなり強いものでした。

けれど、奄美大島は人口が多い分、関わる相手が自分で選べます。同じ離島といえど、加計呂麻島ほどの警戒心はありませんでした。

奄美大島には、一時は鹿児島県で一番の飲み屋街だった屋仁川通りという繁華街もあります。

当時はコロナ禍がいつ開けるのかまったくわからない状態。しかし、東京に戻るのはどうも気乗りがしない。そこで、まずは取り急ぎ、奄美大島に引っ越そうと私は思いました。そして、一人暮らしを2年半ほど経て、今年の6月から奄美大島で母と暮らすことになりました。前回でも書いたように、今でも加計呂麻島での暮らしのことを夢に見るくらい、私は島の生活を気に入っていました。

ですが、現在では、奄美大島に引っ越してきて良かったと思っています。

今回の記事の一番最初の夕日写真を撮った大浜海浜公園にて。

次回は、奄美大島に引っ越してきて良かったと思っている理由を書きたいと思います。


こちらの記事はstand.fmにて、私自身が読み上げているものとAI音声読み上げ機能で作成した音声を配信しています。
母と暮らすようになって、音声読み上げ機能を使うことも増えたので、こういった機能はぜひ進化してほしいところ!

私自身の声での番組はこちら。

AI音声読み上げ機能での番組はこちら。



【今日のつぶやき】
ようやく、タイトルにある広告制作会社についての話に触れられてよかった! 次回は、奄美大島での母との暮らしについてお話したいと思います。

Header photo by nobuaki

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三谷 晶子
いただいたサポートは視覚障がいの方に役立つ日常生活用具(音声読書器やシール型音声メモ、振動で視覚障がいの方の歩行をサポートするナビゲーションデバイス)などの購入に充てたいと思っています!