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フライドポテト計画 #8 長め

部屋の中は静かだった。聞こえるのは時計の針の音だけ。だが、龍也にはどこか遠くで神様が笑っているような気がした。
「なんか、このプロジェクト、名前をつけたほうが良さそうだよな」
ふと視線を動かすと、ゴミ箱の中に昨日食べたフライドポテトの空き箱が見えた。
「……よし、じゃあ『フライドポテト計画』でいこう」
言った途端、耳元で小さく笑い声が聞こえた気がした。が、それはあの神様だったのか、まあどうでもいいことかもしれない。
「それにしても、スナモンがターゲットだとして、何をどうすればいいんだ?」
龍也は双眼鏡をじっと見つめたが、答えは出ないままだった。



その頃、「スナモン」と呼ばれる砂川は、自宅から3時間もかかる街にいた。月に二度、この街に足を運んでいる。理由は単純だが、他人には絶対に知られたくない。
砂川が通う先は、いわゆる風俗店だった。
理屈はある。だが、その理屈は、本人以外にとっては到底理解しがたいものかもしれない。
砂川は大学に進学するとき、文系ではなく理系に進むことを親から強要された。文章を書くことが好きだった砂川には不本意な選択だったが、大学に進むためには条件をのむほかなかった。文系の道を諦めた彼は、趣味として小説を書くことを続けることにした。それも、エロ小説だった。
「想像力を全開にして書けるのが楽しい」と砂川は感じていた。親には当然隠していたが、彼にとってそれは大切な趣味だった。
やがて砂川は、書くだけでは物足りなくなった。実際に体験してみなければ、リアルな描写はできない。そう考えた砂川が足を運び始めたのが、今通っている店だった。
最初のうちは特に指名もせず、いろんな女性と過ごしていた。だが、あるとき「NANA」という源氏名の女性と出会い、それからは彼女を指名することが多くなった。
「NANA」は漫画『NANA』に憧れてその名前をつけたらしい。実際の見た目は全然違うが、その親しみやすさと、どこか影を感じさせる雰囲気が砂川の心を引きつけた。
3時間もかけて通う理由をぽろりと漏らしたとき、彼女も自分の出身地を話してくれた。それがきっかけで、少しずつ打ち解けていった。
砂川は自分が教師だということはまだ明かしていない。ただ「公務員」という立場を伝え、「職業柄、秘密を守ってほしい」とだけお願いしていた。それが互いの信頼感を生むきっかけになったのかもしれない。
NANAにもさまざまな事情があるらしく、ぽつりぽつりと語られるその背景が、砂川にはどこか親近感を覚えさせた。彼女の話を聞くうちに、砂川は小説のネタになりそうなことを試すこともできるようになった。
「小説を書いている」と砂川が話すと、NANAは少しずつ興味を示し、感想を求められるようになった。砂川にとって、彼女の反応は唯一無二の読者としての価値を持っていた。



一見、表には出せない趣味の延長のように見える砂川の行動。しかし、その裏には、彼自身もまだ気づいていない深い「秘密」が潜んでいた。それは、いずれ彼の意識を変えるきっかけとなるのかもしれない――。
ここに通い出して、どれくらい経つだろう。砂川がぼんやりとそんなことを考えていた時、NANAがぽつりとつぶやいた。
「吾郎ちゃんは結婚しないの?公務員なんだし、相手いそうだけど」
その言葉に、砂川の頭にふっと浮かんだのは父親の顔だった。
「一人っ子だからなぁ。あの親の面倒を見てくれる人なんて、なかなかいないと思うんだよな。奥さんになる人が可哀想だしさ」
「そんなにひどい親なの?」
「外から見たら普通だろうけどね。うちの中は、まあ……色々あるよ」
NANAは、煙草をくゆらせながら「そういうもんだよね」と言った。
「でも、一人っ子なら結婚しろってうるさく言われたりしないの?」
「言われるけど、相手にしないとそのうち何も言わなくなるよ」
「へぇ。そんなもんなんだ。でも、私としては吾郎ちゃんが来なくなると寂しいから、結婚しなくてもいいけどね」
NANAの言葉に、砂川は少し笑った。もちろん、NANAが呼ぶ「吾郎ちゃん」というのは、彼が店で使っている偽名だ。お互いに本名を名乗らないのは、暗黙の了解だった。
「結婚したら、さすがに風俗なんて通えないもんね」
「まあ、そうだね。でも、NANAちゃんだって、ずっとここにいるわけにはいかないんじゃない?」
「それはそうだね」
NANAは少しだけ目を細めた。
「お金貯めたら、やりたいことはあるよ」
「何するの?」
「海外に行くの。一年くらい学生して遊ぶのが夢」
「ふーん。それで?」
「それで、お金持ちの外国人と結婚して海外に住むの」
「なんだそれ。お金目当て?」
砂川が笑うと、NANAもふふっと笑った。
「夢がないよりマシでしょ?」
(確かにそうだ)と、砂川は思った。このままNANAがここに留まり続けるわけがない。いや、自分自身だって、この生活をずっと続けるわけにはいかない。
「でもすぐにはお金たまらないから、しばらくは吾郎ちゃんの相手をするかな」
NANAは冗談めかしてそう言いながら、煙草の火を消した。
数日前、砂川のもとに一通の封筒が届いていた。応募していたエロ小説の賞に入選したという通知だった。
その話をNANAにすると、彼女は目を見開いて驚いた。
「マジ?エロ小説家さんがお客様だなんて、ウケる~!」
「まだ入選しただけだよ。これで食べていけるなんて思ってないし」
「いやいや、すごいじゃん。で、公務員やめて小説一本にするの?」
「それがなぁ……」
砂川は少し言葉を濁した。
「親に言うのは、ちょっと抵抗があるんだよね」
「ああ、実家暮らしだっけ?エロ小説書いてるって、顔合わせるの気まずいよかもね」
「ここに通ってることも、もちろん言ってないしな」
「まあ、そこは言わなくていいことでしょ。てか、エロ小説書いてることだって、別にバラさなくてもいいじゃん?」
「でも、どうせそのうちバレるだろうし……」
「そっか」
NANAは、少し考え込むような顔をした。
「まあ、いろいろあるだろうけど、私は次の作品、楽しみにしてるよ」
「ありがとう」
砂川は、NANAのその一言にほんの少しだけ救われた気がした。
砂川高也、32歳。高校の数学教師になって10年目の独身、一人っ子。
自宅から職場へ、そして職場から自宅へと日々淡々と往復する生活を送っている。趣味らしい趣味も特にない。いや、ひとつだけあるとすれば、それはエロ小説を書くことだ。つい先日、その作品がある賞に入選したばかりだが、家族にはもちろん秘密だ。
父親の信一は、かつて高校の体育教師だった。3年前に定年退職してからは、暇を持て余しているようで、趣味で続けているフットサルの練習が週に三回。その時間だけが、最近の父親を生き生きとさせている。母親の恭子は、今もパートで事務仕事を続けながら、地域のボランティア活動に積極的に参加している。
平日は職場、休日は家。砂川の生活はこのルーティンにほとんど変化がない。けれど最近、週末にほんの少しだけ外出する時間を作るようになった。それが父親の目に留まったのは、言うまでもない。
「高也。今日もどこかに出かけてたのか?」
いつものように父親が問いかけてくる。
「まあね」
これで終わればいいのだが、父親の質問はだいたい続く。
「どこに行ってたんだ?」
「どこでもいいだろう。俺もこの歳だ、やることくらいあるよ」
「結婚してない男が出かけて行くところなんて限られてるだろう」
「大学のサークル仲間と会ってるって言ったじゃないか。情報交換だよ」
「お前の同級生なんてみんな結婚してるんじゃないのか?そんな暇人が集まるもんか」
「親父だって、フットサルはずっと行ってたじゃないか。人のこと言えるかよ」
「そろそろ結婚して落ち着いたらどうだ。父さんも母さんも安心するだろう」
このやりとりが最近の定番だ。父親はこうして機会があるごとに「結婚」を話題に出してくる。年齢的にそうなのかもしれないが。
「まあ、いい人がいればね。いないから結婚してないんだよ」
「だったら見つけろよ」
「考えておくよ」
適当にそう返して、砂川は会話を終わらせる。ありがたいことにこのことに関しては、父親もそれ以上追及することはない。



砂川が子どもの頃、父親は典型的な体育系の教師だった。熱心で、厳しくて、そしてなにより「運動が好き」というのを信条としていた。
砂川は、運動が苦手なわけではない。それなりに器用だったし、父親の期待に応える程度には野球もサッカーもこなしてきた。けれど、心から好きだったわけではない。むしろ、本当は家で本を読んでいる方がよほど好きだった。けれど、父親の顔を思い浮かべると、それを口に出すことなどできるはずもなかった。
そんな日々が変わったのは、小学校高学年の時だった。野球の練習中に転んで腕を骨折したのだ。それをきっかけに野球からは離れ、父親が勧める他のスポーツにも参加しなくなった。
「運動、もうやらないのか」
当時の父親の声には、少しばかり落胆の色があった。が、それ以上の強要はなかった。
父親はショックだったのだろう、と今になって思う。でも、砂川自身は心の底でほっとしていた。もちろん、それを顔には出さなかったが。
その後、父親は砂川に運動を無理強いすることはなくなった。それどころか、特に興味を持たなくなったようにも思えた。父親は常に仕事で忙しく、家庭のこと、ましてや息子のことに関心を払う余裕はなかったのだろう。
だからこそ、退職後にこうして口出ししてくるのが鬱陶しい。仕事一筋だった父親が、急に息子の人生に干渉しようとする。それがたまらなく窮屈だった。
(親父がこうして詮索してくる間、俺のエロ小説のことなんて絶対に言えない)
砂川は心の中でそう思いながら、また新しい原稿を書くために机に向かうのだった。
大学進学を考えたとき、砂川高也には文系の学部に進みたいという思いがあった。文学、歴史、言葉――それらに興味を抱く自分がいた。だが、父親の一言でその道は閉ざされた。
「理系以外はダメだ」
それは理屈でも、説得でもなく、ただの命令だった。逆らう気力もなかった。それに、理系が嫌いというわけでもなかったから、従うことにした。結果として、それなりに大学を卒業し、地元の高校に就職が決まった。
外から見れば、挫折知らずの人生に見えただろう。教師となり、安定した生活を送り、両親と同居し、特に波風のない毎日を過ごしている。だが、自分の心の中ではいつも風が吹いているような感覚があった。形容しがたい孤独感や空虚感。それはいつからか、自分の一部となってしまっていた。



夏休みが終わり、またいつもの日々が戻ってきた。
砂川は高校教師として10年目を迎えている。行事ごとも慣れたもので、担任業務もここ5年ほど続けてきたことで要領を得ている。
「変わらない毎日だな」
朝のホームルームのベルを聞きながら、砂川は誰にも聞こえない声で呟いた。変わらない日常。それは安心感であり、同時に退屈でもあった。
そんな火曜日の午後、6時間目が始まったばかりのことだった。
「砂川先生、ちょっと!」
慌てた様子で同僚の前田先生が教室に飛び込んできた。
「どうしました?」
「ちょっと廊下に出てください!」
前田先生に促され、砂川は廊下に出た。
「砂川先生、大変です!お父さんが倒れたそうです。フットサルの練習中に急に倒れて、意識がないって。お母様から連絡があって、すぐに病院に来てほしいって!」
「倒れた……?どこの病院ですか?」
「県立病院の救急です。お母様がそちらに向かっているそうです」
「わかりました。授業は……」
「授業はこっちでなんとかしますから、すぐ行ってください!」
「ありがとうございます」
砂川は深く頭を下げて学校を後にした。自分でも不思議だったが、そのとき、心はやけに落ち着いていた。



病院に到着すると、受付のカウンター近くに母親の姿が見えた。普段はどこか余裕を漂わせている母親が、今は真っ青な顔をして佇んでいた。
「お母さん」
声をかけると、母親がぎこちなく振り向いた。
「どう?」
「今、手術室に入ったところ。先生は脳出血だろうって……」
「そうか」
砂川は短く答えた。それ以上、何も言葉が出なかった。
二人は無言のまま手術室へと向かった。途中、母親がぽつりと漏らした言葉が、砂川の耳に刺さった。
「血圧が高いから気をつけてって言ってたのに……」
「薬、飲んでたよな」
「フットサルも運動が激しいから減らしてって何度も言ったんだけど。本人は若いつもりだったのよ」
砂川は答えなかった。そういえば父親は、いつも「俺はまだまだ若いからな」と冗談めかして言っていた。元気に見える父親を疑ったことはなかった。
手術室の前で待つ時間は、途方もなく長く感じられた。1時間ほど経った頃だろうか。医師が手術室から出てきた。その顔には、明らかに疲労と残念そうな表情が滲んでいた。
「先生……」
母親がすがるように声をかけると、医師は申し訳なさそうに首を横に振った。その瞬間、母親の足元が崩れるように倒れた。
砂川はとっさに母親を抱きかかえた。それが精一杯だった。それ以外、何もできなかった。



父親は、あっけなく脳出血で亡くなった。
夢を見ているようだった。父親がいなくなった現実を実感するのには、しばらく時間がかかった。
忌引きを終え、学校に戻ると、先生たちや生徒たちから声をかけられた。「大変でしたね」「お辛いですね」といった言葉が次々と降り注いだ。
砂川はそれらを他人事のように聞いていた。(こんなふうに声をかけられるなんて、今までなかったな……)と、ぼんやりと思った。
自分の人生に変化が訪れたのだろうか。それとも、この変化はただの始まりに過ぎないのだろうか。風が吹き続ける自分の心の中で、答えはまだ見つからなかった。
葬式が終わってほっと一息ついた頃には、二週間という時間があっという間に過ぎていた。
家では、母親が葬式の準備やお世話になった人たちへの連絡に追われ、事務的なことばかりに集中していた。父親がいなくなった寂しさを感じる暇さえないようだった。
砂川自身も、日常の業務に戻ると、慌ただしさに追われて、自分が何を感じているのかを意識することすらなかった。
そんなある日、授業が終わった後に、教え子の一人である龍也が教室に訪ねてきた。
「先生、この問題、ここからどうしていいのかわからなくて」
ノートを差し出す龍也の顔は真剣そのものだ。砂川はノートを覗き込みながら軽く頷いた。
「ああ、これか。ここからはこの方程式を代入して解くんだ」
その問題の解き方を端的に説明していく。
「そういうことか。先生の説明、わかりやすい!」
「そうか?」
「うん、塾の先生より全然わかりやすいよ。塾じゃ、この問題ちんぷんかんでさ」
「これ、塾の問題か」
「うん。もう行きたくなくなっちゃったんだ。行っても意味ないし」
砂川はふっと笑みを漏らした。それを見た龍也が言葉を続ける。
「先生、本読むの好きなんですか?」
「え?」
「先生、いつもお昼に本読んでるの見てたからさ」
「ああ……まあな」
(とはいえ、エロ小説に使えるアイデアを探すために読んでる本もあるけどな)と砂川は心の中で思った。
「先生は本を読んでるから、言葉で説明するのが上手いんだと思う」
「……」
「塾の先生って、僕らがわからないことをわからないみたいなんだよね。でも、先生はちゃんと僕の疑問に付き合ってくれるからさ」
その言葉に、砂川は思わず笑みを浮かべた。自分が「付き合っている」という意識はなかったが、そう言われると少し悪くない気分だった。
「先生」
ふいに、龍也が真剣な声で言った。
「先生、お父さんが亡くなって、悲しくないの?」
砂川は一瞬、言葉を失った。
「……何を急に」
「先生さ、お父さんが亡くなってからのほうが、なんか笑ってるよ」
「そんなことないさ」
龍也の言葉に、砂川はドキッとした。確かに、父親がいなくなってから心が軽くなったような感覚があったのだ。それを自覚している自分がいることが、どこか後ろめたかった。
その心の動きを感じ取ったかのように、龍也がじっと砂川を見つめている。その視線に気づき、動揺を悟られまいと砂川は言葉を選んだ。
「そんなに今まで笑ってなかったか?」
「うーん、なんか先生、前より楽しそうに見えるんだよね」
言われてみれば、確かに最近、笑顔を浮かべることが増えた気がする。だが、それが父親の死とどう関係しているのかは、自分でもはっきりとはわからなかった。
「先生はさ、なんで先生やってるの?」
突然の問いに、砂川は言葉を詰まらせた。
少しの間、教室に静けさが訪れた。先に口を開いたのは龍也だった。
「僕の両親は公務員なんです。だから僕も公務員になるのかなって思ってました。でも、それでいいのかなって最近考えるんです。先生のお父さんも先生だったって聞いたから、先生もお父さんと同じ仕事を選んだのかなって思って」
砂川は無意識に父親の顔を思い出していた。子どもの頃から怖い存在だった。威厳を纏い、生徒たちにも厳格だった父親。そんな父親を見て「教師になりたい」と思ったことは一度もなかった。ただ、大学を卒業した後、自然と教師という職業を選んでいた。それがどうしてなのか、自分でもわからなかった。
「そうだね、なんでなんだろうね」
砂川は、自分に問いかけるようにそう答えた。
「何かやりたいこととかあったんですか?」
龍也の言葉に、また返事に困っている自分がいることに気づいた。
(なんでこの生徒は、こんなに答えにくいことばかり聞いてくるんだ)
そう思った瞬間、心の奥からイラッとする感情がこみ上げてきた。だが、それを顔に出すわけにもいかない。
「もう昔のことで忘れちゃったな」
とりあえずそう答えた。これ以上踏み込まれないように、言葉を選んだつもりだった。しかし、自分の言葉がまるでうそ臭く感じられた。
(本当に忘れたのか?)
そう問いかけてくる声が心の奥で響いている。
本当にやりたいことなんて、あったのだろうか――。
そう思いながらも、ふと子どもの頃の自分を思い出していた。
運動に明け暮れる毎日。それはやりたいわけでもなく、ただ「やらされている」だけだった。本当は、本を読みたかったのだ。文字の中には自分の知らない世界が広がっていて、そこに浸る時間が楽しくて仕方なかった。
(でも、やりたいことはできないんだ)
どこかで、そう諦めていた自分がいる。
(だから最初から望まないほうがいいんだ)
子どもの頃の自分が、そう語りかけてくる。
(望んではいけないのか? 本当に?)
今の自分が、その子どもの声に問い返す。
(そう決めたら、そうなるさ。望まない生き方を選んだのはお前だ)
子どもの頃の自分は、あざ笑うようにそう返した。
(望まなかったわけじゃない。ただ、自分の望みを伝えることに疲れてしまったんだ)
父親に何かを言おうものなら、そこから延々と説教が始まる。その時間が苦痛で仕方なかった。何を言っても否定され続ける日々。それが積み重なるうちに、自分を否定する声そのものを遠ざけるようになっていたのだ。
(言われたことをやるだけの、ロボットのような自分になることで、その苦痛から逃れていただけかもしれないな……)
そんなことを考えながら、ふと龍也の顔が目の前にあることに気づいた。
「忘れるって、そんな前のことじゃないのに」
龍也がぼそりと言った。
「……20年も前だよ」
「そんなに前じゃないですよ」
そう言う龍也の声には、妙な力がこもっていた。普段の彼とは少し違うように感じられる。その気配に、砂川は自然と龍也の顔をじっと見つめていた。
龍也の瞳の奥には、どこか諦めと反発が混じった複雑な感情が浮かんでいるように見えた。それは、かつての自分の姿そのもののように思えた。
「先生、僕、将来どうしたいのかわからないんです。わからないけど、先生みたいにはなりたくないって思うんです」
「俺みたいに?」
砂川は思わず聞き返していた。
「そう。先生はすごく優しいし、教えるのが上手いけど……なんか、自分のこと、どうでもいいって思ってるみたいに見えるから」
その言葉に、砂川の胸の奥が鈍く揺れた。
自分のことをどうでもいい――
そんなふうに見えていたのか、と驚くと同時に、どこかでそれを肯定する自分がいることに気づいてしまったのだ。
龍也の視線を受け止めながら、砂川は何も言い返すことができなかった。
佐藤龍也、16歳。
地元の高校生だ。確か両親は県庁に勤めていると聞いた。どちらも地元出身で、ここでは古くから住む一家だ。龍也の父親とは、役所で手続きをする際に何度か顔を合わせたことがある。そのときの印象は、几帳面で真面目な人だった。息子の龍也もまた、そんな父親譲りなのか、真面目で大人しい生徒だ。
だからこそ、こうして自分に話しかけてくるのが、どうにも不思議だった。普段なら必要最低限の会話しかしない龍也が、今日は妙に突っ込んだ話をしてくる。
「先生、あんまり僕らと話さないから、先生のこと知らないんですよ。ただ、ちょっと聞いてみたかっただけです」
龍也は、まるでこちらの考えを読んだかのように、さらりと言った。その物言いに、砂川は一瞬たじろぐ。
「そうだな……あんまり生徒と話すことはないかもな」
面倒ごとには巻き込まれたくない。それが、砂川の本音だった。父親は熱血漢で、よく生徒や親と揉め事に巻き込まれていた。それを見て育ったせいか、自分は父親のような教師にはならないと決めていた。わざわざ問題に首を突っ込む必要がどこにある?そんなふうに思いながら、遅く帰宅する父親を眺めていた子どもの頃の自分を思い出す。
「佐藤のことも、あんまり知らないかもな。佐藤はやりたいこととかあるのか?」
逆に質問してみるのもいいかもしれない。そう思い、砂川は龍也に問いかけた。
「僕は……さっき言ったように、公務員になろうと思ってました。でも最近、ただ公務員になるだけでいいのかな、って考えるようになって。仕事として何をしたいのか、そこまで考えたことがなかったんです」
「仕事として、か」
「父は県庁で働いていて、地域の人たちのために仕事をしているんだって言います。だけど、僕はただ漠然と『公務員』って思ってただけで、その先のことは全然考えてなかったんですよね」
龍也はそう言って少し笑った。
「それを聞くと、先生も似てるかもしれないな」
「似てる?」
「先生も、自分が何をしたいかなんて、考えたことなかった気がするよ」
「そうなんですか?」
龍也は驚いたように目を見開いた。
「人の話を聞くのは好きだから、そういう仕事ができればいいなと思ってます。公務員でも、そういう方向の仕事ってあるのかな、なんて」
「人の話を聞くか……」
「自分から話すのは苦手なんですけど、友達の話を聞くのは嫌じゃないんです。たとえば、伸二の馬鹿話とか、まあしょうもないんですけど、聞いてるうちに、伸二が『お前のおかげでスッキリした』なんて言うこともあって。そういうの、悪くないなって思うんです」
「そうか。お前には向いてるのかもしれないな。聞き出すのも上手いし」
砂川はそう言いながら、龍也に対して少しイラッとする自分を感じていた。
(本当に、聞き出すのが上手いな。妙に突っ込んでくるし……)
「そっち系の仕事をこれから探してみようかと思ってます」
「いいな。今から方向性が見えてるなら、きっと見つかるさ」
「先生も、今からでも変えられるんじゃないですか?」
「……え?先生も?」
「先生って、本当に先生じゃなきゃダメなんですか?別のこと、やってみてもいいんじゃないかって思います」
龍也の言葉に、砂川の胸の奥がざわざわと揺れるのを感じた。
「今から仕事を変えるのは、難しいかもしれないな」
「そうなんでしょうか?先生を続けながらでも、やりたいことを探すのはありじゃないですか?」
「……そうだな。考えてみるよ」
砂川はそう言ったが、自分の中で何かが動き始めている感覚を抑えられなかった。
「じゃあ、僕はこれで帰ります。問題も解けたし、先生のことも少し知れてよかったです」
龍也はにっこりと笑って立ち上がった。その笑顔に、砂川は少し救われたような気がした。
「そうか。先生も、もっとみんなと話す時間を作るようにするよ。ありがとうな」
「はい。じゃあ、失礼します」
龍也の背中を見送りながら、砂川はふと考えた。
(俺も、やりたいことなんて、まだ見つけられるのだろうか――)
そんなことを思いながら、教室にひとり残った砂川は、窓の外をぼんやりと眺めた。風が少し冷たく感じられた。

教室を出ていく龍也の後ろ姿を見送りながら、砂川は無意識のうちに父親のことを思い出していた。父が亡くなったのは突然のことだった。病気の兆候も見せないまま倒れ、そのまま戻らなかった。あっけない最期だったと言うべきか、準備をする間もなかったというべきか。
葬儀やら役所への手続きやらで慌ただしく日々が過ぎていき、悲しむ暇すらなかった。周囲から「大変だったね」「寂しくなるね」と言われても、寂しさを実感することもなく、ただ淡々と目の前のやるべきことをこなしていただけだった。いや、正直に言えば、父親がいなくなったことで胸の奥が少し軽くなったような気がしたのだ。
そのことを誰かに話すつもりはなかったし、話せるはずもなかった。母親にそんなことを悟られるのも避けたかったから、努めて普通を装ってきた。けれど、さっき龍也に「先生、前より笑ってる気がしますよ」なんて言われてしまったのは、少なからず自分を動揺させた。無意識のうちに、何かが変わっているのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら、自分も教室を後にした。
その日の夜、自宅に帰ると、母親が久しぶりに台所に立っていた。ここしばらくは忙しさもあって外食や惣菜ばかりだったから、手作りの料理の匂いが新鮮に感じられた。
「おかえり」 「ただいま」
二人だけの食卓。いつもの光景のはずなのに、父親の席だけが空いているその場面が、どこか異質に見えた。長年座り続けていた父親の存在感は、それがなくなった今でも食卓に影を落としている。食事の支度をしていた母親も、それを感じているのかもしれない。
「やっぱり、いないと寂しいね」
母親がそう言って、小さく笑った。どちらかと言えば「自分に言い聞かせるような笑み」だった。
「まあ、うるさい人がいなくなったと思えばいいんじゃない?母さんもこれからは好きにしたらいいよ」
軽い冗談のつもりで言ったつもりだった。けれど、母親は箸を置き、しばらく手元を見つめていた。笑顔のまま、目尻に涙が光るのが見えた。
「そうだね。好きにしたらいいよね。でもね、あの人、うるさかったけど、いないと静かすぎて寂しいもんだね」
母親の言葉にはどこか含みがあった。砂川は何かを言おうとしたが、言葉がうまく出てこない。ただ無言で食べることしかできなかった。
しばらくの沈黙の後、母親が口を開いた。
「高也もね、これからは好きなことしていいんだよ」
「え?」
不意に言われたその言葉に、砂川は思わず顔を上げた。母親の顔にはいつもの穏やかな表情が浮かんでいる。
「お父さんね、あんたのこと誇りに思ってたよ。言葉にはあまり出さない人だったけどね。あの人、不器用だから」
「そんなふうには見えなかったけど」
「そう見せてただけよ。あの人、本当はコンプレックスの塊みたいな人だったのよ」
「コンプレックス?」
砂川は眉をひそめた。いつも堂々としていて、威圧感すらある父親に、そんな影があったとは思えなかった。
「勉強があんまり得意じゃなくてね。兄弟の中で一番成績が悪かったんだって。それがすごく引け目だったみたい。だから運動だけは誰にも負けないように頑張ったんだって」
「運動が得意なのは知ってたけど、そんな理由があったのか…」
「お父さんね、高也にはそんな思いをしてほしくなかったんだと思う。『この子にはもっと自由に、自分の好きなことをしてほしい』ってよく言ってたもの」
砂川は目を伏せた。父親のそうした思いを、これまで一度も聞いたことがなかった。そして同時に、それが胸の奥に小さな痛みをもたらした。
「高也もね、我慢ばっかりしないで、これからは好きなことをやりなさいよ」
母親の言葉が妙に胸に刺さった。答えようとしたが、喉が詰まったようで何も言えなかった。ただ静かに頷くことしかできなかった。
その夜、自室に戻って机に向かい、手帳を開いた。そこに書かれているのは仕事の予定や生徒指導のメモばかりで、「自分のための予定」が一つもないことに気づいた。そのことに気づいてしまった自分に、かすかな恐怖と違和感を覚えた。
(俺のやりたいことって何だったんだろう…)
窓の外を見れば、夜風がそっとカーテンを揺らしている。その音がどこか父親の声のように聞こえた気がした。
「高也…お前はどう生きたいんだ?」
父親にそう問われているような気がして、砂川は手帳をそっと閉じた。すぐに答えを出すことはできない。けれど、考えるべき時が来たのかもしれない。そう思いながら、静かな夜の空気を吸い込んだ。
あの父親が気が小さいなんて信じがたい。あの堂々とした態度、いつも何かに怒鳴りつけるような口調、家の中での存在感。それが、恐怖や不安を隠すための演技だと言われても、簡単には納得できなかった。
「いつも自分を強く見せるために必死だったのよね」と母親がぽつりと言った。
「でも、あんなふうにずっと気を張ってると疲れるでしょ。だから、たまには弱音を吐くこともあったのよ。もっとも、高也の前ではそういう姿を見せなかったみたいだけどね。」
確かに、父親が弱気なところを見たことなんて一度もなかった。俺にとっては、いつも威圧的で、正直うんざりするくらい厳しい存在だった。
「それでもね、高也には自信を持って生きてほしいって、あの人なりに思ってたのよ。」
その言葉を聞いて、俺は思わず口の中で苦笑いをした。自信どころか、あの父親の態度のせいで俺はどんどん自分に自信を失っていったというのに。
「不器用だったのよね。自分の気持ちを言葉にするのが本当に下手だった。だから、強い父親を演じ続けるしかなかったんだと思う。弱さを見せるのが怖かったんでしょうね。」
「何が怖かったんだよ?」思わずそう尋ねた。
「自分が『できない人間』だと思われることが、あの人には何よりも怖かったんだと思うわ。特に、まさきおじさんが優秀だったでしょ?おじいちゃんの前では、なおさら自分を強く見せなきゃいけなかったの。」
「そんなことで…」
「高也にだって、本当はもっと素直に接したかったと思うのよ。でもね、一度強い父親を演じてしまうと、それを崩すのが怖くなっちゃったんでしょうね。」
その言葉に、俺は少しだけ胸が痛んだ。確かに、父親は俺に厳しかったけど、その厳しさにはどこか不器用さがあったことを思い出した。
「でも、高也が野球をやめたとき、あの人は本当に悩んでたのよ。運動をさせたのは間違いだったのかなって。骨折したのも、自分のせいだって思ってたみたい。」
正直なところ、俺はあの骨折がむしろ嬉しかった。運動が好きじゃなかった俺には、ちょうどいい逃げ道になったからだ。でも、そんなふうに父親が悩んでいたなんて、少しも気づかなかった。
「悩んでるふうには見えなかったな。」
「そういう人だったのよ。弱さや後悔を隠してしまう人。でもね、高也が結婚もしないし、仕事に打ち込んでるふうでもないから、最近はよくこう言ってたのよ。『俺の育て方が悪かったんじゃないか』って。」
「育て方のせいじゃないよ。」
「でも、あの人はそう思ってたのよ。自信を持って生きてほしかったのに、逆に自信をなくさせてしまったんじゃないかって。」
母親はふと目を伏せて言葉を続けた。「結婚しろとか、そういうことしか言えなかったけど、本当はもっと応援してあげたかったみたいよ。」
「今更言われても、もういないし。」
「だからこそ、高也。やりたいことがあるなら、今からでもやってちょうだい。それが、お父さんの最後の願いだったんだから。」
「最後の願い…?」
母親は一瞬、ためらうような顔をしてから、ポツリと告げた。「小説、入選したんでしょう?」
その瞬間、俺の心臓は止まったような気がした。血の気が引いて、全身が冷たくなるのを感じる。
「えっ…どうしてそれを…?」
「世間は狭いのよね。お父さんのフットサル仲間に出版社の人がいてね。選考に関わっていたらしいの。それで名前と住所を見て、もしかしてって。」
「父さん…それを知ってたのか?」
母親は静かに頷いた。「知ってたのよ。それでね、あの人、こう言ってたの。『高也がやりたいことを見つけたのなら、それを応援するのが俺の役目だ』って。でも、直接言えなかったみたいね。最後まで、不器用な人だったわ。」
俺は何も言えなかった。ただ、父親の顔が頭の中に浮かび、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えていた。

「そう。」
高也は短く返事をしたが、心の中はざわついていた。
父親にだけは知られたくなかった。だから、3時間もかけて風俗街に通いながら執筆していた。全てパソコンで書き上げ、自宅で印刷したり手書きしたりすることは一切避けた。誰にも知られないように、完璧なまでに用心してきたはずだった。
「それ、父さん何か言ってた?」
ようやく口を開いた。
「文章を書きたかったんだなって。無理やり理系に行かせたこと、後悔してたみたいよ。」
母親の声はどこか優しい響きがあった。
「……エロ小説だよ?」
「それでも書くことには変わりないでしょ?やりたいことがあるなら、それをやらせてあげられてたのか、って。」
「そんな馬鹿な。」
母親は少しだけ笑った。「お父さん、喜んでたんだよ。入選するほど書けるのかって驚いてね。」
「まさか……そんな……」
「お父さんってね、そういう人だったのよ。」
高也は眉間に皺を寄せながら首を振った。「でも何も言わなかったじゃないか。」
「人から聞いた話だったしね。あなたが話してくれるのを待ってたんだと思うわ。でも、結局聞けないまま、こんなことになっちゃったのよ。」
「……そんなのって、ないだろ。」
母親は優しく微笑みながら言葉を続けた。「だからね、もし教師という立場で書けないとか、何かを諦めなきゃいけないって思うんだったら、教師を辞めてもいいんだよ。それもお父さんが言ってたことなの。」
「え?」
「だけど、自分で決めなさいって言ってたのよ。やるもやらないも、あなたが選べばいい。お父さんが言ったからって無理にそっちに進む必要もないしね。ただ、自分で決めることが大事なのよ。」
「……そんな。」
高也は息を吐き、椅子にもたれかかった。なんだか全身から力が抜けたような感覚だった。
父親の顔色を伺いながら生きてきた日々がよみがえる。怒られないように、揉めないように。言われたことを黙ってこなせば平和に過ごせると信じてきた。それが正解だと思っていた。
でも今更「好きにしていい」と言われても、何をしたいのかなんて、今の自分にはわからなかった。



一方、龍也は家に帰ると双眼鏡を手に取っていた。
「あれで何か先生にできたってことなのかな?もっと他にやることないのかな?」
何か気になって仕方がなかった。
龍也は双眼鏡を覗き込んだ。遠くの公園でフットサルをしている男たちの姿が見えた。その中に一人、妙に目を引く人物がいた。四十代くらいのがっしりした体格の男。その男がシュートを決めた瞬間、目の前のキーパーの顔が見えた。
「……え?誰これ?」
双眼鏡から目を離した龍也は、首を傾げた。
(あの男の人は誰だ?そういやヒントもこの双眼鏡はくれるんだっけ?)
記憶を探るように考えを巡らせる。砂川先生の父親がフットサル中に倒れた、という噂を思い出した。
(この男の人と何か関係があるのか?それとも偶然?)
ふと、龍也は公園のフットサル場の場所を調べ始めた。小さな街だ、情報はすぐに出てくる。このチームは、年代も職業もバラバラだが、平日午後に集まるメンバーだということがわかった。つまり、時間に融通の利く仕事をしている人たちが中心だということだ。
しかし問題があった。練習時間は木曜の午後、学校が終わる頃にはとっくに練習が終わってしまう。
(どうやって確かめたらいいんだろう?)
龍也は再び双眼鏡を握りしめ、窓の外を見た。何かを探し出したいという衝動が止められなかった。
(どうしたら会えるんだ?)
龍也は双眼鏡を握りしめながら考え込んだ。フットサルの練習が行われている場所は街の外れで、学校帰りに寄るには少し遠い。何の理由もなく行けば、怪しまれるのは目に見えている。
「龍也!」
クラスメイトの伸二が教室のドアから顔を出した。
「伸二?どうした?」
「なあ、次の木曜日だけどさ、映画観に行かね?」
「映画?」
「コナンの新作だよ。木曜は学割で安くなるし、上映開始が夜6時だからちょっと遅めだけどさ、親父に迎えに来てもらう予定なんだよ。バスで映画館まで一緒に行こうぜ。」
映画館――その言葉を聞いて、龍也の中でピンとくるものがあった。映画館は、フットサルの練習をしている体育館のすぐ隣だ。もし6時前に映画館に行けば、練習が終わった時間帯と重なる。つまり、あの男に会えるかもしれない。
「行く、行く!」
龍也は即答した。もちろん映画も観たかったし、このタイミングは絶好のチャンスだった。
「学校終わったらすぐバスで行こうぜ。早めに着いて映画館で時間潰そう。」
「そうだな。遅れると困るし、早めに行こう。」

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