空になりたい
未完成
人生は人と比べるものではない 比べるべきではない 比べられない
とは言え、同じ人間であり、似たような容姿で、言語や文化や歴史も共有していたりする
権力を持ちたがる人や、任された人の判断で他の人の人生は左右されたようにも思える
人を制限するものは何も権力だけとは限らない
権力者すら儘ならぬ支配がある
死や病、痛みや悲しみなど、万人が抗えない支配である
これらは孤独の静かな奥の間で、じわじわと時には強烈に人を支配する
その支配が訪れた時、どんな時であっても、苦しみ叫ぶ声を上げることはできない
泣いても喚いても叫び声を上げても、自分を傷めたくなる誘いに打ち勝つ気力だけを
残して、獣から人に戻るまでの僅かな時間を、目一杯に苦しみ足掻かなければならない
これは運命であり、神が授けたもう一つの祝福なのだ
この世には実に祝福された人たちがいる
「人を富ませるのは主の祝福。人の労苦は何も増し加えない」箴言10:22
勤勉で賢く穏やかな性質で柔らかな物腰、日々の努力や豊かな才能、豊富な知識や機知に富んだ経験。
それら全て神様が祝福して導いておられる。神様はその人を愛しておられるから何の悲しみをも増し加えないということ
神様に祝福された人の見目麗しい姿を想像して悦にいることもできるが
神に殊更、愛されたダビデを思い起こせば良いことではある
しかし、現代の同世代、同世紀の人物を捜したいのである
たくさんおられると思います 本当に
一方、情報化社会にあっても、思わぬ人生の破綻を経験する人もいます
その人たちは愚かなせいでそうなったのでしょうか 違います
神様が祝福しておられないから諦めるべきなのでしょうか
見捨てられた人生として地上での残りの人生を滅茶苦茶に生きて良いのでしょうか
勝手に命と取っても良いのでしょうか 見離されたものの祈りは聴いてもらえないのでしょうか
祝福が一つだけなら旧約聖書のエサウとヤコブのように奪い合いになるでしょう
言葉は祝福とは言わないかもしれませんが、人の目に映るところではないところを
深く洞察するなら、人の心のひだを読み取るなら
苦しみさえ人にお渡しになる神とは、一体どれだけ愛が深い方なのだろうと。。。
話が急に飛躍しすぎて訳がわからなくなった と思っているでしょう
では、トランプの絵札を思い起こしてください 若しくは澄んだ泉に映る逆さまの景色や自分の姿
まるで正反対のようですが根は同じ、つまり神様が選んで与えられていつも共にいて
どんな時も離れることなく良くなるように導かれている
人はうわべを見るが主は心を見られる とある通り
レプタ硬貨2枚をささげたやもめの信仰を見られた神
お金持ちをやっかんでいるのではありません
度重なる不幸の人生を歩んでいます 金銭的にも貧しく、病気がち、努力を踏み躙られたりもする、卑しい職業の人間だと卑下した言葉や視線や扱われ方をしたこともあります 報われない人生に生きていても神様は見捨ててなどおられないのです
聖書を読む目さえ試みられましたが、これまでにない忍耐を教えるために
痛みの中で過ごす日々をもう100日以上お与えになっています
人として相当に厳しい生活です しかし、仕事はあります 住むところもあります
人は私を見捨てることができます 私は教会に行くことができます
人生の営みはかろうじてできる程度ですが、人の目にはそこまで大変に映らないので
頭を低くして生きることができました
こうなるともう忘れかけていた感覚 悲しみが集まった方が幸せ という星野富弘さんの絵とことばと 悲しみを通っている人の、人を見抜く目
制限された人生の中に輝き出す石を植え付けるためであろうか 人には痛い 苦しい
植え付けられたそのもう一つの目を以って人を愛してみなさいと 世に放される
神様、病気になったら今度こそ命を奪ってください とお願いしているのに この
ギリギリの不死身感がどうにも辛い
神は子なる神イエスキリストを十字架に渡された
あれほど親として苦しく悲しいことはない 子を亡くした親も同様でしょう
一生涯悲しみを負っているでしょう 人の痛みは思い起こして又痛む
心の傷と同じように私も新しい痛みとなったのでしょう
2021年の春、本間牧師が倒れられたことを知って東京に戻りたいと願ってきた
冬にやっと実現したが、私は病になった 本間牧師に会うことはできなかった
本間牧師に会ったのは葬儀に際して棺に寝ておられる安らかなお顔とお姿であった
この世を生き抜くボディは本間先生も弱かった しかし師の聖書に対する信頼
神に全てを委ねた信仰、愛と恵の言葉の取り継ぎ、貫かれた献身の姿は弱さの中に
十分に表されていたのです
見習おうと思ってもできなかったゲッセマネの弟子たち 信仰が弱かったからと書かれている
神様が教会の愛するものたちに分け与えておられるとしたら、聖餐式のパンと葡萄液と同じく私にはこの体に起こる病なのだろうか
愛せる生きれる教会に行ける祈れる手紙が書ける できることはなんと多いことか
転んでも転んでも、流されても流されても、歩け、登れ、這い上がれ
もう きついのにね 私の目に映るもの 心 悲しんでいる心 喜んでいる心
みことばが足の燈となって 生き馬の目を抜くような輩がいっぱいいるこの世界で
貧しいものに与えられた祝福はキリストそのものなんですね
世界の7%の超エリートと同じく超極貧である しかし水鏡に写し出された祝福は
輝くはずだ
エジプトの王の前で老人になったヤコブは自分のことをおいぼれだから と
言葉少なに語った 偏愛した息子ヨセフを長年探し求めた父の言葉にしては
多くの疑問と想像を禁じ得ない 彼も長く痛み、苦しみ、狡猾な男でもあったから
神との対話をした男でもあるから、何かきっとあったに相違ない
この箇所でいつか話し合っても多くの恵みを分かち合えるかもしれない
私は告白します 私の人生は失ったものがたくさんあります どれ一つも取り戻せてはいません 更に失い、弱くなるばかりでしょう
しかし、私は告白します 私が失った人生の祝福は、イエスキリストが預かっておられます 時折、見せてくれますが、見なくても良いと言われます
どこを見るのか 誰を見るのか 何を愛するのか
人や富や力を越えたところにあるものを見よ それができるのはお前なのだ
お前の人生でわたしの目で見よ と
神に偶然はない 出会には理由がある とよく言われる
神と生きる実感などそうそうにない祝福です
困難の時 わたしがいる と言ってくださる主のように 今度は 私がいる と私が言うのか
タイトルまでまだ行き着いていません
翼を持つ鳥でもなく 樹々を飛び渡るテナガザルでもなく 大海を泳ぐ海の生き物でもなく 重力は関係ありますが 空になりたいです
どんな色でも形でも神様と一緒がいいです
完成していないのですが とりあえず送ります
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