母のお見舞い
2年ぶりに母のお見舞いにいってきた。
コロナで一時は禁止となっていた面会だったが、制限ご解除されてからもなかなか足が向かなかった。
お正月とはそういう気が向かないものに
「行こうかな」
と思えるミラクルな期間だ。
(親戚の集まり、お墓参り、大掃除…とかね)
母に会ったのは2年前
精神科の病棟を
ぐるぐるぐるぐる一日中歩き回っていた。
私や孫である子どもたちの顔を見てもニコリともせず
表情なく
ただ、歩き回っていた。
それから、歩行が不安定になり、転倒を繰り返すようになって、慢性硬膜下血腫で去年手術をした。
術後、母は歩くことができなくなった。
そして、ごはんを食べることができなくなり、一時は胃ろうの話まで持ち上がったが、今はなんとか口からものを食べれているらしい。
手術や転院の手続きは妹や義父が執り行ってくれたので、私は母に会うことはなく2年が過ぎた。
妹から、母の様子は聞いていた
「視線も合わないし、話しかけても反応がない」
そっか…
そんな感じなんだ…
と思っていた。
そういう母を想像して、家族でお見舞いに行った。
ガラス越しに見る母は
リクライニング車椅子に微動だにせず座り、身体は捻れ、手足の指は動きを失ったことが見てとれるようにツルツルしていた。
首も捻れて傾いて正面を見ることができない。
いつも、私が見ている典型的な
「寝たきり全介助の人」
母の視線の先に私は腰をかがめた。
ガラス越しに
「おかあさん」
と呼んでみた。
視線は合わず、虚な目をしていた。
職員の方が、ピッチを母の耳元まで近づけてくれて、私は渡されたピッチに向かってもう一度
「おかあさん」
と呼んでみた。
虚だった母の目に僅かに動きがあった。
「おかあさん、、あっこだよ。おかあさん」
もう一度そう言った。
「あああぁぁー」
母は声を出した。
眉間の皺をより深くし、悲しそうな目をして、マスクの下からは涎が滴り落ちながら、身体を捻らせ、母は唸るように何度も、何度も、私が話しかけるたびに声を出した。
こんな言葉を伝えたかったんじゃないのに
私は何度もおかあさんに
「ごめんね、ごめんね」
って言っていた。
3年前に、暴れる母を無理矢理大学病院に入院させた時の情景が今も胸の奥深いところで苦い匂いを放っている。
失禁しながら鶴屋を歩き回ったり、裸で家の外に出て行ったり、在宅生活はもう、本当に難しかった。
私が、仕事も家庭も置いて、母の側にいれたとしても。
その選択肢しかなかったのだけれど
それでも
「ごめんなさい」
って思う。
正月早々に、夫も子どもも見てる前で、わたしはありえないくらいいっぱい泣いてしまった。
そんなどうしようもない事実や感情も抱えていくんだなぁ、生きていくって、って思った。
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