脳脊髄液減少症と分かるまで③
どこの整形外科へ行っても、脳神経外科へ行っても、
『異常なし』との結果でなかなか治療に繋がりません。
どの先生も、気持ちの問題ではないのかと口々に言います。
どうにかこの痛みを止めるために市販薬の痛み止めを飲み、
(痛み止めは1日に5回飲むようになっていました。)
この頃になると不安感や不眠症も強く出ていたため
精神科に行って抗不安薬のパキシルや、睡眠薬のマイスリーを処方してもらい
日々をなんとかやり過ごしていました。
2024年の6月に入り、痛みはどんどん増すばかり。
この頃実家から少し離れたマンションで家族4人で生活していましたが
鎮痛薬も効かず、わたしは半寝たきりの状況に追い込まれます。
これまでの2年半、痛みの無い日はありませんでした。
毎日毎日、欠かすことのできない鎮痛薬と精神薬。
どこの病院に行っても原因が分からず治療に繋がらない不安と焦り。
子供たちのこともなかなか出来ず、寂しい思いをさせるもどかしさと申し訳ない気持ち。
夫にも負担をかけてしまい、申し訳ない気持ち。
家族への申し訳ない気持ちばかり。
そして、わたしはこのまま一生、この半寝たきりの状態なのだろうか、ずっと痛みが続くのだろうか、どうなってしまうのだろうと、不安の波に飲み込まれる。
わたしの心はもういっぱいいっぱいになっていました。
6月の中旬のある日、もう本当に痛くて痛くてどうしようもなくて
母親に泣いて電話をしました。
『痛くて痛くて気がおかしくなりそうなの、もうどうしていいか分からない』
この時初めてこれまでの状況を伝えました。
普段夫にも言ってはいたのですが、仕事が忙しくなかなかゆっくりと話せる時間も
ありませんでした。
両親はその日の夜、すぐにマンションへ駆けつけてくれました。
母親の顔を見た瞬間、これまでの気持ちが一気に溢れ出し
わたしは大泣きしました。
『もう痛くて痛くてどうしていいか分からない』と。。。
その様子を見た両親は、只事ではないと思ったのか
「これでは生活していけないだろうから、とりあえず実家に帰っておいで」
と言ってくれました。
翌日には家族4人でわたしの実家に最低限の荷物を持ち、
この日から療養生活が始まります。
実家に帰ってから、少し心に余裕ができたのか、それまでの鎮痛剤も
何とか効き始め、朝から子どものお弁当を作ったりスクールの送迎も
できていました。
それが8月に入ってから、急に症状が進んでしまいました。
朝起きると痛みはすぐに始まり、起きたら鎮痛剤を飲む生活。
これはもう、アレしかない。
ある朝、わたしは母にポツリと言いました。
『この症状、やっぱり脳脊髄液減少症かも・・・』
ずっと向き合えなかった病名、その病名を口にした瞬間でした。
母はそれを聞いて、こう答えました。
『原点に帰って、産院に一度相談してみたらどう?』と。
わたしは本当にその通りだと思いました。
そうだ、だってももこを出産してから始まったこの症状。
相談するべき場所は原点の産院だ。
わたしはその場で産院に電話をし、事情を説明しました。
幸運にも当日予約することができ、わたしは急いで支度をすませ
夫に車で一緒に行ってもらうこととなります。
2024年8月8日のことでした。
ここから急展開を迎えることとなります。