風船おじさんの調律
(2012年ブログに書いた文章です)
『風船おじさんの調律』は、自作の風船ゴンドラ「ファンタジー号」に乗って太平洋にきえた怪人、風船おじさんこと鈴木嘉和さん、のパートナー石塚由紀子さんの書かれた本。個人的に風船おじさんはなんかシンパシーを感じる人で、興味があるんで読んでみました。すごく面白かった。以下はだらだら長い感想文。
風船おじさんの生涯についてはWikipediaに詳しく載っていて、その引用元は主に週刊誌と、この『風船おじさんの調律』からになっている。週刊誌のまとめによるとおじさんの人物像は以下のようなものだ。博打的な事業につぎつぎ手を出しては失敗し、負債を取り返すために冒険をはじめ、その無謀さをいくども指摘されていたにもかかわらず、現実の悲惨さから逃れるために風船飛行船で太平洋横断するというとっぴな夢想に隠れ、多くの借金と迷惑を残し消えた、愚かな男。そこにはおとぎ話でいう「欲ばりじいさんがしっぺ返しをくらった」据わりの良さがあり、彼が生前みずからの保険金について語っていたという記述は冒険が自殺であったことを仄めかしている。
一方『風船おじさんの調律』では借金問題や、ファンタジー号の装備の甘さ、といったネガティブなことはほとんど綴られていない。という意味では片手落ちといえるので、興味のある方は事実情報を補完するためにもWikipediaのほうをまずみたほうがいいと思う。
さて、じゃあ200ページ以上あるこの本、何を中心に書かれてあるかというと、それはもう圧倒的なまでの、夫への賛辞、愛の告白であり、またそれをささえる自己陶酔であり、陶酔によって客観性を欠いたメロドラマ的世界。つまりひたすらノロケてる少女の日記みたいで、正直いってこりゃけっこう読み進めるのきついかなっていうのが第一印象でした。「彼は私の言うことなんて聞かなかった。もう知らない!」といった具合に、彼女の気分が多くの場面で話の落としどころとなっていて、一番知りたい、肝心のおじさんの実像、輪郭がずっと霞んだままなのだ。唯一びしびしと伝わってくる主張は、彼がめったとないほどの正直者であり、それを支えた私も純粋な人間だ(故に私たちの障害となるものは不純だ)という物語というか、とても白黒のはっきりした世界観である。
とはいえ、この本にはWikipediaがひろっていない、重要なおじさん情報がひとつある。それは彼が双極性障害であった可能性について。直接そう語られているわけではないから断定してはいけないけれど、たとえば、おじさんが「のめり込みやすい性格」を治すために賭け事をやめる施設に入っていたこと、横浜博覧会で客集めのために鉄塔によじ登り立て籠もったエピソード、そして彼の父が「息子は調子のいい時と悪い時で、生のほうれん草と茹でたほうれん草ほど違った」という喩えをしている3点だけとりだしても、少なくともその兆候があった情況を推測できる。というか、起こした事件の性質からなんとなく想像はできることだけれど、彼にあらわれた症状の具体例に触れられるだけでもこれは伝記として価値のある本だといえる、かもしれない。
そこには正直と欲張りがひとつの体に共存することに何の矛盾はないという単純な真実があり、ただ言葉や善悪に分離する前の原始的なエネルギーが彼を支配していたことがみえてくる。
著者である石塚氏は、鈴木氏の浮き沈みを病とは認識せず、躁状態を「畏敬の念を感じさせるほど強い集中力と行動力」と、うつ状態は「誰よりも感受性が強く繊細だったために、意識の底、宇宙へとつながるために旅をする」と受け止める。がっちりと。勿論ある意味でそれは正しいのだろうけど、部外者にはあまりに信頼が勝ち過ぎてるとみえてしまう。2人の間での循環が、相乗効果となって歯止めを失ったのではないかとさえ思える。つっこみ不在の漫才がイメージを拡散し着地点を失うように。
そして中盤に明らかになるのだけど著者は若かりし頃出家を考え、僧侶に混じって講演会をひらくほど宗教心が強く、スピリチュアルな思想をもっていらっしゃるのでした。後半になるに従い「すべてはひとつ」という言葉が繰り返され、人間愛、宇宙大の夢、本質、大義、原点(著者は風船おじさんを「原点さん」と呼んでいたそうだ)、一体感、気の強い場所、などなど、つかみどころはないが100%の肯定を意味する言葉がいたるところ、目くらましのように散りばめられ乱反射し、どんどんおじさんのイメージは影のない、のっぺりした像になっていく。
それはニューエイジとか新興宗教の新聞なんかを読んでる感覚に近い。そういうのほとんど読んだことないけど。でもこの本には「教祖と巫女」の関係性というのはこういう風に完成されるのだなという強い説得力がある。そう考えると主観的な書き方にも必然性があると感じるし、むしろとても生々しい。教祖の姿は光の彼方に霞んでいたほうが神性を帯びるわけだから。
本の冒頭は、ファンタジー号が旅に出たあと著者がおじさんらしき人物から電話を受けるところから始まるのだけど、そこで著者は「彼が自分に生存報告をしている」と確信する。が、はっきりした確証は読者に示されない。これは人々の罪を背負い天に消え、死んだあと復活した、と弟子によって書かれたキリストに重なる。というか無意識に著者が重ねているんじゃないかと(けっこう確信をもって)思う。おじさんが暗い世界を、夢を見られる時代に変えるために飛んだ、と何度も強調されることも見逃せない。
オウム真理教が誕生した1984年、おじさんはライフワークであり後に大きな借金をのこす原因となった音楽教材販売会社を起業し、おじさんが空に消えた1992年11月に麻原は最終戦争を予言し危険思想をあきらかにする。性質の違うこの2つを重ねるのはあまりにも乱暴だし、なんでも時代のせいにするっていうのは短絡だとは思いながらも、この頃の同じ空気をうつす2枚の鏡として頭に並べずにはいられない。とても単純でバカげた物語の出口(であり入り口)をもとめての自爆。ファンタジーが肉体につながると信じられた季節の終焉。一方は地下で集団となり、一方は天空にたったひとりで……。私がおじさんに好意を感じるのは、この「たったひとり」な点でもある。
とはいえ、こういう素敵な(当然ながら皮肉ではないです。純粋に素敵な)狂人、または狂人一歩手前の変人、と代弁者のカップルというのは勿論珍しくはなくどの時代にもあるわけで、風船おじさん独特の天才は「鳴き砂を守るため、愛に奉仕するため風船に乗って日本からアメリカに渡ろうとした」という、やはりとにかくその1点だろうと思う。鳴き砂は少しでも汚れると音を発しなくなる性質をもつ。この純粋性はおじさんの理想である〈ありのままの自然〉と呼応し、夫妻のあいだにドグマを形成した。「なんで鳴き砂守るために飛ぶんだ。普通に稼いで募金しろ」だとか「環境保護のため?いや風船って海汚すだろ」とかいうまっとうな批判は、あまりにも輝きすぎた風船おじさんの目には煤けたゴミにしか映らず、ただの燃料にしかならない。
バブルがはじけた後、その異様なテンションを預ける対象を失ったおじさんは、自分で狂気のバブルを膨らまし飛ぶしかなかったのではないか。バルーンはバブル(泡)の美しいまがい物であり、そこに注入したのは夢と嘘の混合物。それはヘリウムの資金をテレビ局が支援していたことに象徴的だ。たとえ借金にまみれ崖っぷちにいたとはいえ、太平洋というとてつもなく広い死地に生を感じられる(私は風船おじさんの冒険を自殺だったとは思わない)愚かさはやはり宗教的といっていい才能である。とかいうとおじさんをけなしてるみたいかもしれないけど、そうじゃなくて、結果は違えど鑑真とかと根っこは同じということで。
私は風船おじさん夫婦の手触りに乏しいキラキラした夢に100%感情移入できるほどピュアではないし、かといって「香ばしい」という言葉を最高評価とするような、冷笑的な態度で珍事件を味わおうという悪趣味にも100%はなれない。どっちかというと80%くらい後者よりではあるけど、それでもやはり風船おじさんへの憧れは心にあって、「風船によって音楽になれる」といった彼が語るフレーズのいくつかには胸を揺さぶられてしまう──たとえばおじさんは「音のない上空で、今ぼくは世界を調律しているんだと思った」という、誇大妄想を持った者にしかいえない詩的な言葉を残している──し、もし彼がアメリカ大陸にたどり着いたとしたら?と、成功者となったおじさんの笑顔を想像すると悲しくて楽しい気分になる。
「風船おじさんの調律」の天然な文体、ちょっと間の抜けた神秘性のもたせ方は、深刻さとバカバカしさをあわせもつ事件の性質とよく合っていて、だから正しいのだと思った。誰にでもオススメできるっていう種類のあれではないけど、私にとっては興味深く楽しめる本でした。
最後に、今日調べてみつけた2ちゃんねるの「風船おじさん鈴木嘉和は空スポーツ最高のアスリート」という素晴らしいスレタイの、素晴らしい書き込みを紹介しておきます。