見出し画像

8月


猫日記8月分です。

■夜道を歩いている時にたまちゃんが茂みにいるのをみつけて、声をかけようとしたけど、口をあける前に神社のほうへ駆けて行ってしまった。驚くべき俊足。内野を抜ける白球のような。

■今日のたまちゃんは小屋に入らず、植木鉢と壁のあまりきれいとは言えない小さなすきまで寝ている。暑さのせいかと思ったけど陽が落ちても小屋をさける。食欲はふだん通り旺盛。

■昼の熱気にやられぐったりしてるようなので応接間に入れてみたら、滑りながらピアノの上までのぼって、20年以上前に父親が描いた飼い犬の油絵をじっとみつめたあと、犬の顔に目を近づけ、その鼻のあたりを前足で撫でる仕草をした。
動物の行動を擬人化して意味付けするのは我田引水でおかしなことになる場合が多い、とは思うけど、その光景のおかしさに不意をつかれ心打たれてしまった。まるでむかしの犬に挨拶してるみたいじゃないかと。そんなわけないんだけど。

■たまちゃんの両脇をつかみ、こちらを向かせて持ち上げ、目線を合わせつつ顔を寄せていく。すると、たまちゃんは片方の前足をかるく私の顔にあて、それ以上近づかないように押し返そうとする。抵抗をみせない場合は頬ずりできる。確率は半々くらい。無表情のままぴたっと接近をとめる姿が面白いから最近よくこれをやる。前足を顔にあてるとき、たまちゃんは肉球でやさしく触れるけれど、私があまりにしつこくすると稀に爪を出す。
けさ鏡をみたら、目と鼻のあいだに小さなひっかき傷ができている。

■夜中に猫の声がきこえるのでカーテンをあけたら窓の外に茶トラがいた。久々にみる。たまちゃんは小屋の中で、そこから3メートルほど離れたところにトラが座っていた。しばらくしてたまちゃんはトラの方へ近づき、するとトラは後退りして、またほどほどの距離をとり毛繕いをはじめた。
気づかれないように部屋の電気を消して2匹を眺めていた。個別にみるとそれぞれ自分のことにしか関心なさそうだが、引いてみればお互い微妙に意識しあっているのが伝わってくる。
15分ほど経って、なにかを察知した様子の茶トラは尻尾を垂直に立て、たいへんな勢いで階段を降りていった。たまちゃんはトラのいた場所の匂いを丁寧に嗅いで、いつの間にかベランダから居なくなった。

■たまちゃんが玄関前でうろうろしてるので中に入れて釣りのおもちゃで遊んだ。日付が変わった深夜に遊ぶのは初めて。夜のほうが活発なのはわかっていたけど想像以上に昂っている。糸の先のふわふわを追いながら勢いをつけ、並んでいる靴の中につっこんで転がるのが面白い様子で、それを何度もくり返す。
15分くらい動いて疲れたのか、壁とソファの間に収まって出てこなくなった。上から覗いてみたら目が合ったから、手を伸ばして撫でようとしたら、気持ちはクールダウンしていなかったらしく鋭い爪がとんできた。そこで思わず手をひっこめたのがいけなかった。重力と引く力が合わさり手の甲からけっこうしっかり出血。そう言えばこういうとき猫は反省するものなのかなと、血の匂いを嗅がせてみたが、何ということのない素朴な表情をしている。清々しいもんだ。3筋できた傷を洗って絆創膏をはった。

■ソファで寝転んでる私の横にたまちゃんがとび乗ってきた。布をガリガリしないか心配があったけど、前足を手前に畳んで大人しく座っている。

ちゅーるが切れたのでササミを茹でた。ササミはちゅーると同じくらい食いつきがいいし、たぶん健康にもいいし、これからおやつはそっちに固定するのも良いかもしれない。ササミを茹でていると飼い犬に毎日茹でてあげていた頃を思い出す。ちょうどしっとりうまく加熱できたので、自分も食べてみたくなりゴマだれをかけて味見したら止まらなくなり完食。たまちゃんのためにもう一本茹でる。

■最近夜中は小屋にいない。曇りの日がつづいて雨が降らないことも影響してるだろうけど、一体どこに行ってるのか。クロや茶トラと仲良くやってるとよい。

一昨日受けた手の傷はうすく影の落ちたような波型の跡になった。多くは要らないけど、記念と思える贈り物ではある。

■ここのところ夜の8時くらいから、薄暗くした応接間にいれて一緒に過ごしている。ソファで平べったくなってるたまちゃんをみると飼っていた犬の寝顔が思い出される。
いつもだいたい10時くらいになると窓に近づいて外をみたり、ニャーニャー寂しそうに鳴く。それで戸を開けると、たまちゃんはなんの未練もみせず前だけみて去っていく。そのへん犬とはずいぶん湿度が違う。
冬に向けて家猫化の可能性をほんの少しみているけど、たまちゃんの居場所は仲間のいる外なんだろうとも思う。

夜にたまちゃんを見送るときにはいつも、これがもしかしたら永遠の別れになるのかもしれないな、という考えが一瞬よぎる。ずっと一緒に暮らしたいと願いながら、しかしずっと一緒にいられないからこそ今日に価値があったのだとか、生真面目な自己啓発めいたことを思う。それを鳥におやすみをいう時にも確認する。

■部屋の隅に入りこんだと思ったら、蜘蛛の巣を頭に乗せて出てきておかしかった。きらきら光を散らしてちょうどベールみたいだから写真を撮ってみたけど、画像でみると汚い色合いだった。

■Amazonからクッションと桶型の段ボール爪研ぎが届いた。クッションはあまり気に召さない様子。爪研ぎはまたたびを振っておいたら自分から入るようになった。

これからのことを考えて、たまちゃんが人の食事にどんな反応を示すのか試してみた。もし奪おうとするなら留まるように、そこだけしつけてみよう。と夜に応接間で焼き鳥を食べてみたら、たまちゃんはテーブルに上がり、食べ残しに狙いをつけ近づこうとする。実にゆっくりと。焼き鳥をもう一段高い台に置いたら、そこにも登ろうとするのでコラッというと、首を引っ込めてテーブルから降りた。しおらしい仕草がまた犬に似ている。室内でたまちゃんと一緒に居ると、ほとんど何をしても自動的に犬の顔が頭に浮かぶようになってきた。

画像1

■初めてたまちゃんがソファの上でしっかり眠っているのをみた。外の物音で目が覚めたようで、絞りだすような細い声を伸ばし、ぐっと腹をひっこめ背中を丸めるタイプの伸びをした。
今日は珍しく日付が変わっても外に出たがるそぶりをみせない。再び眠り、右後ろ足をぴくぴく動かした。

あまりこちらがじっくり見つめては圧を感じさせるかもしれない、けど見ていたいから、タブレットのカメラでたまちゃんを映して画面を眺めていた。

■注文しておいたロブスター型のぬいぐるみが届いた。先端部がカサカサ音が鳴りやすくできている。渡した瞬間そこをかみついて足を上下に動かした。これは当たりの買い物をしたと思ったが、以後はほとんど興味を示さなくなった。

■ベランダに人工芝を敷いてみた。猫は環境が変わるのをきらうと言うけれど、芝の上にすぐ寝転がってくつろいだので一安心。暑さがましになりますように。

画像2

人工芝の上にいると知らないうちにどんどん頭が幼児退行してしまう。遊園地とか、子供の頃デパートにあったパターゴルフを思い出すからか。人工芝にはちょうどいい嘘っぽさがあると思う。たまちゃんをデッキチェアの上に置いたがすぐにとび降りて、その下にもぐり込んで涼んでいた。

■夕方、土間に招き入れたらすぐニャーニャーといって、立ち止まりこちらをみる。鳴き続けるのでどうしたのかと思ったら、うしろ足がドアに挟まって動けなくなっていた。慌てて抱き上げ足を触ってみる。痛がる様子はない。そっと床に降ろす。歩きかたは自然。ためしに高い位置におやつを置いたら難なくジャンプしてとったから、手当てが必要な怪我ではなさそうだ。これから気をつけないと……。
思い返せば、飼っていた犬は同じような痛い思いをしたとき、どの犬もはっきり非常事態とわかる甲高い声を出したものだった。それに比べるとたまちゃんの知らせ方は呑気でやさしい。食べ物を求める甘い声とほとんど差がないくらい。これも単独性故なんだろうか。

また思い出すのは、文鳥を飼い始めて日が浅い頃、放鳥中にテレビを観ながらなんとなしうしろに手を付いたら、そこに鳥(くうちゃん)がいたこと。思いがけない圧を受けた、まだ幼鳥のくうちゃんはギャーと大きく鳴いて怒った。幸い大事に至らなかったが、手が落ちる位置がもう数センチ違って鳥の中心をとらえていたなら、自分はくうちゃんを潰していたのかもしれない──と、今でも当時の鳴き声が聴こえてくるようで背筋が寒くなる。
そのとき以来、私は手を地につくという行為を無意識にすることがほとんどなくなった。鳥が籠におさまっているときも、なんとなく場所を確認してから手を置く。肝を冷やす経験のつみ重ねは人の日常を少しずつこまやかにさせる。

そういえば4年前のこと。3年に1度くらい会う叔母に、「鳥を飼い始めたんですよ」と話したら、叔母が今まで自分が飼っていた鳥がどのように亡くなったか(寒さで凍えた、猫にやられた、雲雀がジャンプした拍子に網で首をつった、水がこぼれてなかった、気づかぬうちに餌が全部殼だけになっていた)を嬉しそうに、ことこまかく延々と語ったことがあった。それを聞いていた場所は従姉妹が入院している病室で、従姉妹も一緒だったから、なんて場にそぐわないことを言い始めるんだろうと戸惑ったけど、いやそうか、叔母は私に様々な事故の可能性を教えようとしていたんだなと、帰り道でやっと気がついた。さらにいえば、たぶん芯の意図はそこにもなくて、愛するものに不幸が起こらないように、起こりませんようにと、自分の娘を心配する心境があわさり、全てが笑い話になるように願うなかで、死についての言葉を楽天的に響かせようとしていたんじゃないか、と今になれば想像できる。

■3日ほど前、茹でたエビみたいにソファで丸まってるたまちゃんを撫でていたら、くるっと回転した拍子に背中から下にずりおちて、一瞬視界から消えたあと、前足の爪をフックに土俵際から復帰したのでびっくりした。床に落ちようとする絵と、爪でつかまる絵。2枚が漫画のコマように残るのだけど両者がどんな動きで繋がったのか、脳内に線を描けない。夢の記憶に近い曖昧さ。

■朝7時、珍しくたまちゃんがベランダにいない。
7時20分現れる。

■昼下がり、たまちゃんがベランダの手すりから何か、おそらく虫を探してだろう、近くに伸びている桜の木に顔をつっこんでいるので注目していると、たまちゃんは身を乗り出し枝に前足をかけて、そのままみどり豊かな木の上へ乗り移ろうとしはじめた。ソファからもずり落ちそうになる猫だ。転落したら大変と思って抱いて戻したけど、放っておいたらどうしていたのか興味もある。もしかしたら普段から今日みたいに木に登っているのかもしれない。

Amazonからアルミ製の桶が届いた。猫を映しているライブ配信をみて知った物で、猫鍋というらしい。これをベランダの日陰におけば涼しいんじゃないかと試してみたが見立てが甘かったようで、夏の空気に馴染んだ桶はみるみるうちに熱くなったので室内に設置した。たまちゃんを乗せてみたが、興味をそそられない様子ですぐに出てしまう。以前気に入ったかにみえた段ボール製の丸ベッドにもだんだんと近寄らなくなった。というのはソファが何より居心地がいい様で、放っておくとそこに大体いつも登って居場所にしている。

ソファの上のたまちゃんを撫でたいけれど、触ると気持ちいいときにするグーパーをくりかえして、その拍子に布が傷つくのであまり続けられない。爪を切れば家具(と私の皮膚)は傷まないだろうけど、しかし鉤を失うと木をつかむとき不便かもしれない。というわけで猫用爪切りはAmazonの欲しいものリストに眠ることになる。

■「猫 反応 映像」で検索したYouTube動画(小動物が行き来する映像)をみせたら、たまちゃんは目を見開いて凝視し、iPadの画面をパンチした。このまま続けると液晶がどうにかなりそうだからiPadを避難させたけど、たまちゃんはタブレットスタンドに顔を寄せて、さっきまでその裏にあったはずの空間を探していた。(動画をあげました)


■夜はたまちゃんを応接間にいれて一緒に過ごすのが習慣化した。はじめはお客様という感じで一定の緊張感を持っていた様子だったけど、そのうち勝手を知ったようで、喫茶店にいるくらいの雰囲気でうとうと寝るようになっていった。滞在時間もちょうど喫茶店で一服する程度。くつろいだ体勢から、何か用事でも思い出したように立ち上がって、窓の前に座り外をみる。それが別れの合図で、私はお会計お願いしますと言われた主人ような気分になり、戸を開けて猫を見送るのだった。

最近ではたまちゃんがさらに日常に溶けて、部屋にいるのを忘れてしまうことがある。なにかな、この白い塊は、ああそうか猫か、たまちゃんか、とあらためて猫と暮していることを確認して、ぼんやりしていた心が現在に返る。たまちゃんもお客感様が薄まって、リビングくらいに自分の場所にしているように思う。出て行くまでの間が伸びて、この日記も部屋でたまちゃんを見ながら書くようになった。自分にとってもリラックスできる時間で、だから文章が長くなっていくわけだ。

画像3

猫は人とどれくらいの距離感を持ってどのような動きをするか、どういう時に喜び嫌がるか、といったさまざまな情報が自分の中に蓄えられて、このごろ驚くことは減ったけど、ただひとつ猫のかわいさについては全く慣れることがない。わかっていても毎日この猫はかわいいなと、あたらしく発見したような気分になる。それはいくら撫でてもすり減ることがない。

■朝ベランダに片羽のとれたアブラゼミの死骸が落ちていた。拾ってノウゼンカズラの根元に埋めてやった。

今日は応接室からでたがる様子がないのでそのまま朝まで家の中で寝た。だらんとやわらかく眠るたまちゃんは杏仁豆腐みたいだと思った。鼻にはフルーツが乗っている。私も一緒にソファで眠った。猫と一緒に寝る生活を昔から夢みてきてたような気がするけど、ただそんな気がするだけで後付けの捏造かもしれない。起きたら5時で、そのまま朝ごはんをあげて、雨が降っているので抱いて小屋まで運んだ。

■応接室の板に座布団を敷いてみたら、すぐにたまちゃんはそこへ吸い込まれるように収まった。猫のためにいろいろ居場所となるアイテムを用意したけど、室内ではシンプルに座布団が1番なのかもしれない。

それは四国の祖母が生前気に入っていた6枚組の座布団で、浪費家だった祖父のせいで倹約を強いられていた祖母が珍しく奮発して買ったものなんだそうだ。
もうひとつ四国からの遺産分けに、金箔が貼られたイカツイ屏風がある。それは骨董商だった曽祖父が残した品で、祖父は曽祖父の死後これを鑑定させたけれど納得いく価格ではなかったものだから、何度も遠方から別の鑑定士を呼んではその度にがっかりしていたらしい。他の遺産はあらかた売ってしまった祖父だから、この屏風の鑑定額は他よりも安かったのだろうと思われる。とはいえ、たとえレプリカだとしてもどのような原型があるのか気になるので、近所の画商さんにみてもらおうと都合をつけていたところ、コロナのばたばたで予定が消えてしまい、そのまま応接室に出しっぱなしになっていたのだった。

そういえば祖母は猫が嫌いだったのだけど、祖母が自分の座布団の上にいるたまちゃんを見たら何というだろう?同じように嫌いだと言っていた犬も、触ってみたら3日ほどで「おもしろいもんじゃね」と評価が変わっていたから、猫にだって笑いかけて喜ぶんじゃないかな。と、もういない人のことは自分勝手に想像できてしまう。

そのように、座布団で眠るたまちゃんに目を細めていたのが一昨日の話で、今日はたまちゃんが座布団を抱いて噛んでの大暴れを演じた。麻の感触がなにかを刺激したんだろうか。よくわからないが、部屋の隅から隅へ走り、今まで聞いたこともない、喘ぐような切ない声を出して、絶えず何かと戦うように跳ねている。と思ったら、ついには屏風へ突進し、二本足で立ち、屏風の枠に爪を立てようとしたので慌てて抱いてはがした。離れたところに降ろすも、とたんにまたネズミ花火みたいに暴走をはじめる。これはなだめるのが難しそうだと、たまちゃんは一度外へ出して、屏風はべつな部屋に移動させた。

ばあちゃんの愛した座布団が原因で、じいちゃんが遊ぶ金にしようと夢にみた屏風がボロボロになるのはちょっと良い話かもしれない。けれども現実的には面白さより屏風のほうを大切にしないといけない。

■朝、屋内にいれるとたまちゃんはまたすぐ座布団と格闘をはじめた。
夕方、家にあるだけの座布団(と言っても4種類だけど)を板に上にならべ、ひとつずつにたまちゃんを乗せて反応を窺ってみる。それからすきに選ばせて1番落ち着く気に入ったのを残せばいいんじゃないかと。結果、新しい座布団2種は暴走スイッチを押すことがわかった。これら両方表面がざらついている。さらっとした素材の座布団だけが無反応で、やはりその差は感触によるものなのかなと思う。
また暴れ出したたまちゃんを移動させようかと思ったけど、なぜか今度は急に憑物が取れたようにおとなしくなり、最初の座布団に乗って丸くなった。

これはたんなる思いつきだけど、たまちゃんは座布団を「やっつけた」んじゃないだろうか。ロブスターのおもちゃの時も、さんざん戦った後ある時から見向きしなくなった。それはもう息の根を止め、自分のものにしたから満足して、獲物、異物ではなくなったという話なのでは。と、よくわからないので納得しておくことにする。

たまちゃんは結局ばあちゃんの水色の座布団で夜を過ごした。自分にはこれが1番似合ってるようにみえる。


🐈‍⬛あとがき

たまちゃん日記はこれで終わりです。本当はもっと続けるつもりだったのですが、ある事件が起こって途切れてしまい──というのは、10月最終日の朝、たまちゃんが虐待を受けて帰ってきたんですね。上半身にレジ袋を着せられ(穴が開けられそこに脚を通されて、あきらかに人為的につくられた格好でした)、足から血出して現れたのでした。抱いて家にいれると、たまちゃんは座布団の上でぐったりしたまま、いつもなら目のいろを変えて追いかけるおもちゃを鼻先に振っても見向きもせず、3日程ほとんど動かず過ごしました。付き添いながら、これは毒でも盛られたのではないかと心配で、こちらも精神的に参ってしまい、日記をつけてたことが頭から吹きとんだ。それが終了のわけであり、また、たまちゃんを家猫として飼うことに決めた理由でもあります。まさか自分が鳥と猫を同時に飼う人になるなんて。

思い返せば、たまちゃんが家にやってきたのは初めの緊急事態宣言が終わった少しあとでした。外出「自粛」を誓いあい、ぴりっと張りつめた人間社会の空気を、猫は我関せず、ふらっと現れてはベランダで伸び伸び過ごす愛らしさ。ステイホームなご時世のせいもあってか、人のつくる境を超えていく猫の姿に自分はつよく魅力を感じていたようです。自由と安全が天秤にかけられる世相を、外猫か、内猫として飼うか、またはそのあわいをいかに形成するか、という悩みと重ねてたわけですね。この日記にちょっとしたテーマがあるとしたらそういうものかもしれません。

というかテーマなんてなくても、いかに些細なことでも、素朴にあった話を書けばなんでもそれは何でも歴史だから、残しておいてよかったなと思うんですよね。それはほんと2年近く経って読み返してみて感じます。

そういえば、ビニール袋を着せられ家に入れた日、煙草(赤ラーク)の空き箱がひとつ玄関前に転がっていたんです。まるで置き手紙のように。次の日、もうひとつ奇妙なことに気付いたんだけど、それはたまちゃんの両足の爪がきれいに切り揃えられてたことでした。けったいな話ですよね。それで、そのとき私は、この犯人は、もしかしたら猫の安全を願ってこんな事をしたんだろうかと想像した(爪切りは内猫にする行為だから)。真相はわからないけど。お前、面倒見るならちゃんと家の中で世話しろよと、そういうメッセージの可能性もあるかなと思ったんですね。ひとのつくる境ってまずはトラブルを防ぐためものであって、つまりそれは常にトラブルの火種を地下に抱えているということでもある。だから猫が個人に「属した」瞬間、越境する動物たちは摩擦熱を発生させる。

となんか辛気臭い話になってきたけれど、まあ、そういうふうにさまざまな想像させるのも猫の力なのかもしれないと思います。たとえば、ですが、たまちゃんが家にたどり着いた日、もしあの暗い緊急事態宣言が発令されていなかったら?たまちゃんは事故に遭って死んでしまっていたかもしれない、とへんなイメージをもつことがありました。交通量がぐっと減った時期だから我々は会えたのかもしれない。とかね、なんかむりやりポジティブに運んでるようでもあるけど。まあとにかく外の猫たちは、我々の知り得ない可能性と偶然のなかを生きている。だから、ここに居るこの猫はたまちゃんだけではなくて、たとえば、あの黒猫を含めて〈猫〉のある部分を引き受けているだけなんじゃないか──と、そのように考えることが、なぜか当時の自分にとって息抜きになっていたようでした。

さて、現在たまちゃんは家猫としてのんびり暮らして、もう外に出してくれと戸をガリガリすることもなくなり、なんだか尖った野性が薄まって、なんでもない時間をじっくり味わうように、仏性!と呼びたくなるような澄んだ表情で、人の生活を眺めています。ワクチンを打ちに行ったとき、獣医さんは「こんなに人に馴れた地域猫は初めてみた」と言いました。もうとくに手をかけないでもよくなった、しっかり自分のスタンスを持っているたまちゃんを、こちらが見習いながら、私は全ての猫を愛していくつもりです。というか、いこうと思わなくとも愛する体になったのだと思います。コロナが流行りはじめた年の5月31日に、たまちゃんがベランダにやって来たおかげで。


いいなと思ったら応援しよう!