母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 21
21.まだまだつづくおいおい話そうと思っていたこと
広島市の家族伝承者の認定を受けていないにも関わらず、
2023年3月に、原爆資料館(正式名は広島平和記念資料館ですが)で、
母の被爆体験を講話することができました。
とある「会」との出会いです。
名前は控えておきます。
これまた新聞から始まった出逢いです。
市が始めた家族伝承者事業は、
私と同じ関門にひっかかる被爆2世が多くいました。
そうです、親である被爆者がすでに亡くなっている人たち、です。
(あ、私の母はまだ生きていたんですがね。
ってか、「まだ」って言いかたもあんまりだな、私!)
市がすすめている被爆体験の伝承は、
家族伝承に先立ってふたつの柱がありました。
①被爆体験証言者
被爆者ご本人が被爆体験を話されます。
②被爆体験伝承者
これは、高齢化がすすむ被爆者の体験を、
若い世代が引き継げるように始まった事業です。
被爆者ご本人が語る体験を伝承していきます。
この制度は2012年度から養成が始まり、
2024年現在、226名の伝承者が活動しています。
さて、この「被爆体験伝承者」であり、
様々な想いを共有しあう被爆2世の3人組がいました。
「被爆体験伝承者」の1期生Mさんと3期生Sさんと7期生Tさんです。
伝承者として活動していたところ、
市が「家族伝承事業」を始めると知りました。
待ちに待った「家族」の「伝承」!
自分たちの親のことを語れるときが来た!
3人が、この研修に臨もうとしたところ、
条件を知って愕然とします。
「被爆者である家族が既にお亡くなりになっている場合は、
ご応募いただくことはできません」
1期生Mさんと3期生Sさんは親御さんが健在でしたが、
7期生Tさんのお母さまは、すでに他界しておられました。
条件がクリアできず、涙をのむことになります。
お母さまが書き残した大量の資料があるにもかかわらず、です。
「いつかあなたの口から伝えてちょうだい」と
言葉を遺されていたにもかかわらず、です。
しかし、そこでくじける3人ではありませんでした。
3人は「会」をたちあげます。
市の家族伝承者に応募すらできなかった方、一緒に活動しましょう!と。
それを新聞が取り上げて、私の目に届けてくれました。
早速、事務局に電話し、
最初の会の発足に加えていただきました。
スタートは20名くらいだったのでしょうか。
集まったのは、私のような立場の人、
市の家族伝承の研修生で原稿作りの最中の人、
被爆2世ではないけれど、義理の親が被爆者の人、
広島の人間でもないし身内に被爆者はいないけれど活動したい人、
被爆3世…。
さまざまな人が集い、勉強会を重ね、そして、2023年3月。
初めての講話会を資料館で開催することができたのです。
発起人の一人である7期生Tさんはもちろん、
私も、発表者の一人として演台に立てたのでした。
そこから始まり、
それからも資料館やお寺などで、
お声をかけていただいた方のもとへ赴き、
「母からの宿題」を語らせていただけました。
各会場で出逢った方々、
しっかり目をあわせて聴いてくださった方々、
真ん前で居眠りされている方(これは私の話術の問題ですな!)、
すべてが私の糧となり、
こうやってここで書くことにつながっています。
会を立ち上げてくださったお三方には足を向けて眠れません。
あ、お三方とも、私の自宅から北と南と西にいらっしゃるから、
えーっと…。
この会の活動から、
ラジオの番組に呼んでいただいたとき、
パーソナリティーさんが、
私の名前の由来を話題にしてくださいました。
安芸子。
安芸の国・広島の子ども。
「芸を身に着けて、安全に安心に暮らしていけるように」と
母は言ってました。
学生時代の悪友は「安っぽい芸の子」と解釈をつけてくれました。
どちらかというと、後者が現在の私を表していますが。
子どものころは好きでなかった名前が、
今では誇りに思えています。
この名前、つけてくれてありがとう、母さん。
もう伝えることはできないけれど、
だからこそ伝えたいんだろうな。
全てが芸の肥やし。
先月59歳になった私。
来年は還暦。
生まれてぐるっと一周する還暦。
還暦へむけてのラストイヤーに、
芸の肥やしを熟成させているところです。
正式な市の伝承者ではありませんが、
お声がけいただければ、
どこでも無償で参上して語らせていただきます。
内容は、ほぼ、ここに書いてあることですが…。
次回 【最終話…たぶん】 につづく