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母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 16

16.母

今年、2024年の1月、母は亡くなりました。
87歳でした。

実は、私は母と折り合いが悪く、何年も話をしない時期が、何度もありました。
子どものころは、お母さん大好きっ子で、母のそばから離れることができないほど、べったりの甘えん坊でした。
母も、『お母さんは正しい。お母さんの言うことをきいておけば間違いはない』と言い切る自信家でした。
今でいう『毒親』の要素はたっぷりありました。
虐待はありませんでしたが(悪さをして引っぱたかれたり、罰として夕飯抜きはありました。今はそれも虐待なんですよね。…じゃあ、虐待されてたのか、私?)、支配されていたといえばそうかもしれません。

中学・高校まで、母のいうことに間違いはないと信じて生きてきたのは確かです。
それが、徐々に『なんか、おかしい』と気が付くようになり、母から距離をおくようになります。
母としては、支配下にいた娘に反旗をひるがえされて面白くはなかったでしょう。
『母がいつも正しいわけじゃない』と気がつき、同時に幻滅して、さらに距離をおくようになります。
とは言え、家を出て一人暮らしをすることは認められず、寝袋とバックパックをかついで海外に放浪の旅にでることになるのです。
見栄っ張りの母は、『娘がバックパックひとつで海外に出ることをひきとめない』ことで、理解ある親であるとアピールしていました。
近所にも親戚にも。
最初にアメリカ行きを許してくれたのはご近所への見栄でした。
短編小説 家族伝承2/4』中のエピソードは思いっきり事実です。

いまでこそ、ふりかえって、こんな風に分析していますが、当時はただただもんもんと暮らすのみでした。
アメリカに行ったり来たりして帰ってきて、しばらく実家暮らしで母とぶつかりあいながらOL生活を送って、ようやく家から出ることができたのは27歳。
島根と広島の県境の町で暮らし、結婚して千葉県民となり、夫と娘を連れて広島に帰ってきて…。
その間も母とはぶつかりあう日々でした。

育児中に、ふと気がつきます。
「そういえば、私、母さんに褒めてもらおうと思って育児してる」
母に褒めてもらった記憶がありません。
父には「すごいのぉ」「よぉやったのぉ」と言われたことはあります。
でも、母からは…ないなぁ。

私、母さんに褒めてもらいたいのか。

そう直訴しても、簡単に褒めてくれる母でないのは、わかっています。
そこで、ああ、まだ、母の支配下にあるんだな…と自己分析。
被爆2世とか遺伝とか…の前に、たちはだかる母の壁です。

でも、ここにこだわりすぎてはいけないことを、娘の存在が教えてくれました。
母と同じ道を歩んで、娘に同じ思いをさせてはいけない。
被爆2世とか3世とか遺伝とか…の前に、断ち切らねばならない負の要素です。

って、気がつくのは、たいてい遅く、娘には、だーいぶん我慢を強いてきた自覚症状があります。
ごめんよ、娘。
ここを読むとは思わんけど、一応、あやまっとくよ。

私は、母さんにあやまってもらえんかったけぇ。
結局、さいごまで褒めてもらえんかったけぇ。

さてさて。
私と母。
お互いに顔を見ては憎まれ口をたたくので、だんだんと会う機会が減り、それでも、忘れたころに連絡をとりあって、一緒に買物にいったり、カープを見に行ったり、3時間も一緒にいればお互いに腹がたってくるのがわかってきて、上手に距離を置くようになったころ、母に認知症の症状が出始めました。

母からの宿題である被爆体験を伝承しようと決意し、
その原稿をまとめる作業で、母と会う機会が増えてきました。
前述の段原の地図の確認などもそうです。
さらに、幼いころに聞いていたことや、母が記していた冊子の内容を、ひとつひとつ確認していくうちに、母が、「そうだったかいねぇ」と不安そうな顔を見せるようになりました。

母はピカッ!もドンッ!も記憶にないと、かねてから言っていました。
ほとんどの被爆者が、強烈に記憶しているピカ!ドン!を、母は知らない。
はじめて聞いた子どものころは、ちょっと残念な気持ちになったものです。
母さん、なんで覚えとらんのん?と。
大人になるにつれ、ピカ!もドン!も覚えてないほうが信憑性がますように感じてきました。
が。
「母さん、ピカ!もドン!も覚えとらんのんよね」ときいたとき、
「なに言いよるんね。すごかったよ。雷が落ちたみたいじゃった」と返されてしまって…。
あらら…。

母さん、それは後づけの記憶じゃね…。

でも、まっすぐな目で私を見返す母に、真実を告げる気が失せていきました。
いや、真実ってなによ?
そう信じていれば真実なんじゃない?

広島市から正式な委託を受ける伝承者としては失格です。
事実を、実相を、正確に受け継いでいく任務ですから。

でも、私は、市の研修生にもなれなかった はぐれ者。ふふ。
私は、市の伝承者になれなくて正解だったんだ。
市の伝承者ではないのですから、
『母はピカ!もドン!も覚えていません』を、
『母は「雷が落ちたかと思った」そうです』と、
変えるかどうか悩む必要はありません。
母の被爆体験は嘘ではありません。
少なくとも、これまで記してきたものは事実です。
…のはずです。
ただ、79年前の記憶。
生きていくために、忘れたり、上ぬりされていくのも事実です。

壮絶な体験をした被爆者の記憶から失われてしまう。
被爆2世としては危機感を覚えます。
しかし、母の娘としては、少しでもツライ過去を消し去っているのなら、それは安堵でもあります。
険しかった母の顔は、会うたびに柔和になり、まるで悪いことは何も知りませんというような幼な子の顔になっていました。
おそらく原爆にあう前、
戦争が始まる前、
母はこんな顔だったんだろうな…。

次回 【最期まで太陽の陽子さん】に つづく

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