見出し画像

母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 11

11.二世への宿題

母は手記を残しています。
出版された冊子の中に収録され、国立追悼平和祈念館にも置いてあります。
1977年から2005年まで毎年8月6日に発刊されてきた冊子の第5集です。
母の原稿が載っているのは、被爆36年後の1981年に出されたものです。
当時の母は44歳、私は16歳でした。
母は『子どものみた原爆~比治山のかげでも』と題名をつけました。

それまで母は、私には被爆体験を語ってくれるものの、公での証言の類から距離を置いていました。
「子どもだったから」とか、「比治山のかげで被害が少なかったから」と理由づけていましたが、一番の理由は私です。

私は幼いころから母の体験をきいて育ちました。
夏休みにまとまって聞くこともあれば、洗濯物を干しながら『シーツを裂いて傷の手当てをした』話や、カボチャの煮物を作りながら『カボチャとサツマイモは一生分食べた』とか、前述のカレーを作りながら聞いた話など戦時中の話をしてくれていました。
そして母は話をしたあと必ず、『よそであんまり言いんさんな。結婚できんなったらいけんけぇ』と付け加えてました。
母が被爆者として活動すると、私が被爆二世であることが世間にわかります。そのことで差別や偏見などで私が嫌なおもいをするのではないかと危ぶんでいたのです。
私としては、そんなことで私から離れていく輩など、こっちから願い下げじゃ!くらいの気概を持っていましたが、娘を持つ母の気持ちが理解できたのは、実際に私が娘の母親になってからです。

母が、私に、おそるおそる切り出した日のことを覚えています。
「母さん、被爆体験を書いてみようと思うんじゃけど、ええかね?」と。
聞けば、何年も前から原稿の執筆を頼まれていたとか。
私のことを考えて、思い悩んでいたに違いありません。
ところが、母の葛藤に気づくこともなく、10代の頃から能天気だった私は、「すごいじゃん!」と笑顔で答えたのでした。
当時から作家になりたくてなりたくてたまらなかった私。
母が書いた文章が活字になって印刷されて本になる!
それだけで大興奮です!
パソコンもなく、ワープロさえ高級品で庶民の日常からはかけ離れていた時代。今のように、こうやって気軽に情報発信できる時代が来るなんて想像すらできない1980年代です。
私は母の心配なぞ気にもとめず、母の背中を押しまくったのでした。

その日から、母は夕飯の片づけが終わると、テーブルに筆記用具を広げるようになりました。辞書を片手に、チラシの裏に鉛筆で書いては消し、消しては書き…。(ええ、キーボードをカチャカチャうつだけで文字が変換されていくなんて、なんて恵まれた環境なんでしょう!)
最後に原稿用紙を買ってきて、清書して提出しました。

母が様々な思いを乗り越え、世間へ向けて書いた2000字あまり。
それが収められた冊子が、冒頭に述べた第5集なのです。
28年間発刊されてきたその冊子は各年の各集で特集が組まれていました。
母が原稿を寄せた第5集で組まれた特集は、『被爆二世を考える』でした。

『被爆二世』

被爆二世である私のことを考えて証言をためらっていた母が決意したのは、やはり被爆二世である私のことを考えたからに違いありません。
だからこそ、母が重い腰をあげて、つらい記憶を文字に起こしたんだ…。
そう気が付くのは、私が50代になり、久しぶりにその冊子を手にとったときでした。
これが、私への宿題となりました。
 
次回【母が抱くアメリカへの感情】に つづく

いいなと思ったら応援しよう!