母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~被爆者健康手帳交付申請書閲覧願編⑦疑問解決の巻

昭和32年に申請し受理された母の原爆手帳。
しかし、手元にあるその手帳の交付年月日は昭和37年。
この5年の間隔はなに?
申請して交付されるまで5年もかかったのか。
単純に考えるとそうだけど、
母はすぐに手帳をもらったとも言っていた。
ふむ、げせん。
そんなもやもやを抱きながら年を越し、そして迎えた2025年。

よし、2025年はこの調査に費やそう!と決意!!!
鼻息も荒く拳を天高く振り上げた私ですが、


それが、


その、


はずかしながら、


ええ、


2025年始まって10日で解明しました。
図書館に行ったり、
親戚縁者の長老を訪ねたり、
弁護士に相談…なんてするはずもなく、
ただ、もう、単純に、また「質問」メールを出したんです。
どこに?
広島市の援護課に。

申請書の閲覧をするときも、
真摯に対応くださった広島市援護課。
ここに「この5年のラグはなんですか?」って聞けば教えてもらえるはず。
最初に思いついた手段はそれでしたが、
時は年末年始。
官公庁はお休みです。
待機。
でもって、仕事始めにいきなり問い合わせするのも…。
と妙なところでもぞもぞして、
10日まで待って援護課にメールしてみました。

シフト調整で休日になった金曜日。
朝から大雪で、ジョギングもお休み。
コーヒーをいれ、パソコンを開け、メールソフトを。
まずは年末に訪問したときに対応してくださったお礼を述べ、
おかげさまで「母の字」に会えたと喜びを伝え、
そして、「この5年はなんですか?」と。

メールを送信して40分後。
電話がなりました。
まさか?
まさか!です。
援護課からでした。
はやっ!
ってか暇なのか?
いえいえ、即座に対応くださった行政担当に
そんな不遜な態度はとれません。
姿勢を正して拝聴しました。
とてもテキパキハキハキとした口調で教えてくださいました。

「交付年月日が昭和37年なのは、その年に制度が変わったからです」

なんと。
昭和32年に制定された原爆医療法は、
その後も、数十回にわたる法改正を重ね、
現在のような保健・医療・福祉にわたる総合的な援護制度となった…と。

そのぐらい勉強してから尋ねてこんかいっ!
とは叱られませんでしたが、
お礼を述べて電話を切って、反省しました。

だって、『昭和37年 制定 制度』で検索したら、
『被爆者援護施策の歴史』って厚生労働省のページがあり、
そこを開くと、だーん!と歴史が書いてありました。

昭和32年4月
「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行。
この法律ができて2ヵ月に、
母は申請して受理され手帳を手にしていました。
この交付は約20万人。

昭和35年8月に「特別被爆者制度」が「創設」。
爆心地から2km以内の被爆者を特別被爆者とし、
医療費の自己負担分を無料化などなどなど。

さらに、
昭和37年4月に「特別被爆者の範囲用件」が「拡大」。
爆心地から2km以内 → 3km以内の直接被爆者を対象とするなどなど。

これです。
母は、爆心地から2.3kmで被爆しました。
だから、昭和37年の制度で「特別被爆者」となり、
新しくなった手帳を交付されたのです。

おそらく、祖母も叔母も叔父も。

「では、多くの方がこの年に交付されなおしているのですね?」
教えてもらった電話口で問うと、
「そー…ですね、そういう方も多いです」

そー…ですか。
援護課さま、ありがとう。
『長年の疑問がとけました』風に御礼を述べて、
電話を切りました。
ぜーんぜん長年の疑問ではないのですが、ま、とけたのは確か。
窓の外は到底とけそうにない雪が積もっていきますが、
回答によって心の中が解凍されたのは確かです。
…なに、うまいこと言おうとしてんだ、私。

なので2025年を費やして行い調査は終了です。

あとは、じいちゃんの軍歴と、アメリカ移民のばあちゃんの従弟の話かな。


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