母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ じいちゃん編③

昭和20年の冬に、戦地から戻った祖父。
なかなか仕事につけなかったようです。
戦争に行く前は何をしていたのか…。
うーん、はやいとこ売れっ子作家になっときゃよかった。
NHKのファミリーヒストリーの取材を受けられたのに!
(動機が不純)

知り合いと事業を起こしたり、騙されたり、いろいろあったそうです。
朝ドラに出てきそうな話は、実際にたくさんあったのでしょう。
母の話によると、
原爆が落とされるまでは、近所に所有する家がたくさんあったとか。
母も「お嬢様」だったとか。
この辺は話半分にきいておくにしても、
どちらかというと「裕福」な家庭だったようです。
その所有していた家や土地が、戦後、どうなったのかわかりません。
私がきいていなかったから…。

で、祖父は写真屋をはじめます。
唐突ではありますが。
もしかしたら、祖父は若いころからカメラが好きだったのかもしれません。
カメラマンとしてもなかなかの腕前だったとききます。
私のアルバムに、二科展に入選して展示してある祖父の写真の前でポーズをとる一枚があります。
親戚でキャンプしたときのキャンプファイヤーの跡を撮影した一枚でした。
モノクロ写真の引き伸ばし技術は、なかなかたいしたものだったそうです。
十日市に店を構えていました。
原爆ドームから1キロほどでしょうか。

祖父が写した若かりしころの母の写真が、手元に数枚あります。
「1957年満20歳」と書かれた一枚。
相生橋の上にたち、原爆ドームを背後に写されています。
母は、モデルのように立ち、斜め前を見あげています。
同じ日に撮られた一枚は、中学の生服姿の叔母と一緒です。
これも原爆ドームを背に、二人ともモデルのように微笑んでいます。
生前、母は言っていました。
「おじいちゃんの写真屋さんの店先に、うちの写真が飾られていた」
被爆後9年の1954年元旦の写真もありました。
振袖を来た母。
やはり相生橋の上、背後に原爆ドームでした。

祖父はどんな気持ちで原爆ドームを撮っていたんだろう。
どんな気持ちで、その写真を店頭に飾っていたんだろう。

原爆ドームを商売に使っていた?
被爆者家族が生きているぞと訴えていた?
ただ、単に、自慢の娘の写真を飾っていた?

今より、まだ、崩れていない原爆ドームが写っている数枚。
周囲をぐるりと囲む柵もありません。
痛々しい姿のまま、
崩れることも許されず、
立ち続けている元・産業奨励館。

おじいちゃん、昭和60年まで生きていたら、
私の二十歳の写真も撮ってくれただろうか。
原爆ドームの前で。



いいなと思ったら応援しよう!