見出し画像

母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 3

3.陽子は9歳でした

母の名前は陽子です。
太陽の陽です。
本人も「母さんは太陽の陽子じゃけぇ」と良くおどけて奇妙なポーズをとったりしていました。基本、ほがらかで良く笑う人です。まさに太陽のようで、ちょっと…いえ、かなり(!)自己中心でわがままな面もある人でした。

1945年、昭和20年、陽子は9歳でした。
皆さん、ご自分が9歳のときのことを覚えていらっしゃいますか?
私は9歳の時、カープが初優勝しました!
優勝決定戦は10歳の誕生日を迎えた直後だったのですが、赤ヘル旋風が巻き起こったのは9歳まっさかりの時です。
かなり強烈に覚えています。
一番セカンド大下背番号1。2番ショート三村背番号9…。
当時のオーダーをそらで言えるくらいかなり強烈な記憶として刻まれています。些細な日常のアレコレは覚えていませんが、人生をひっくり返すような出来事はしっかり覚えています。9歳はそんな年齢です。
 
陽子は9歳でした。
爆心地から東へ約2.3kmの段原新町に住んでいました。
もちろん、どこが爆心地になるかなんて想像すらせずに暮らしていました。7人家族でした。
おばあちゃん、おかあちゃん、お姉ちゃん、陽子がいて、下に3人弟と妹がいました。お父ちゃんは戦争にとられていました。
同級生のほとんどは学童疎開で近所にいませんでした。この年の4月から、国策で国民学校(今の小学校ですね)3年生以上は集団で県北の寺院か、あるいは親類縁者を頼っての縁故疎開をしなければなりませんでした。
陽子の母キミ子が家族をばらばらにさせたくなく、当初は家族全員で母の里のある緑井に縁故疎開していました。しかし、根っからのハイカラさんだったキミ子は、田舎暮らしに我慢ならず、子ども5人を連れて段原に戻っていました。

姉ちゃんの玲子は3つ上の12歳。
第一国民学校高等科、今の段原中学の一年生でした。
姉ちゃんの玲子と陽子は、どこにでもいる仲良し姉妹でした。よきライバルでもありました。玲子と陽子。ケンカになると『レンコン』『ヨウカン』と言い争っていました。食べ物が十分でない時代に、あだ名まで食べ物だったのです。栄養価も高くて甘いヨウカンのほうが勝ちのように思えますが、実は、私は食物繊維たっぷりのレンコンんが大好きなので勝負はつけないでおきます。

8月6日。
陽子は、明け方からお手玉を作っていました。
針仕事が得意で、姉ちゃんが帰ってきたら一緒に遊ぶつもりでした。
姉ちゃんは、その日の朝、建物疎開(焼夷弾による延焼をふせぐため建物をこわして防火帯となる空間をつくる作業)に招集され、同級生たちと朝早くに家を出ていました。この日は月曜日で広島市内では多くの中学生たちが、この作業に駆り出されていました。
玲子ねえちゃんは、その日は珍しく『今日は出掛けたくない』とぐずり、お母ちゃんを困らせ、お母ちゃんは『戦争に行ってるお父さんのことを思ったら休んではいけない』と諭して家を出させました。
お母ちゃんも勤め先である広島駅前の郵便局へ出かけ、おばあちゃんも親戚にノリ団子を譲ってもらいに出ました。

陽子も6歳になる上の弟と一緒に家を出ました。疎開していない子どもたちを集めて勉強させる分散教室があったのです。
家には4歳の妹と2歳の弟二人だけが留守番していました。
陽子と弟が分散教室につくと、もう何人か子どもたちが集まっていました。分散教室といっても普通の民家です。
その家に入った瞬間、地震のように揺れ、建物がガチャガチャと壊れ始めました。
 
次回【幼い弟妹を連れて、子どもたちだけで】へ つづく
 

いいなと思ったら応援しよう!