母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ じいちゃん編①

母の被爆体験を継承していくのが、
亡き母から遺された宿題と認識している私。
幼いころ、母からきいていた被爆体験を、
日常のなにかを、きっかけに、ふっと思い出すことがあります。
今日は、そんなひとつ、母の父・私のおじいちゃんの話です。
母の被爆体験が『連絡ノートに書いてもって帰った宿題』なら、
記憶の底からよみがえったおじいちゃんの話は、
『気が付かないうちに、ランドセルの奥底でくしゃくしゃに丸まっていたプリント』ってとこでしょうか。
そんでもって、いま、まさに、
『あわててプリントを広げてしわを伸ばして』いる状態です。

おじいちゃんは昭和46年に60歳で亡くなりました。
私が幼稚園の年長さんのとき。
朝、起きてすぐに病院に連れていかれ、
親戚のおじさんやおばさん達が、
ベッドを囲んで泣き崩れる光景を鮮明に覚えています。
それまで一日も休まなかった幼稚園を休むことになり、
お遊戯会の練習ができず、
幼心に「どうしよう」と思ったことまで覚えています。
ちなみにお遊戯会の演目は「こびとのくつやさん」で、
私はおばあさんの役でした。
園児なのにおばあさんって…と思うけど、
実際、かなりセリフのある大切な役どころでした。
いや、そんなことより、おじいちゃん。

まだまだおじいちゃんが元気なころ、
おじいちゃんの家に遊びにいくと、
腹巻きから百円札をだしてお小遣いをくれていました。
飼い犬のロク(六番目に飼った犬だからロク)と一緒に散歩にも連れていってもらいました。
一緒にお風呂にはいるとき、
おじいちゃんがパンツでなく布切れをほどくのを見て
驚いたことも覚えています。

はい、おじいちゃんは、ふんどし派でした。
おばあちゃんが洗濯を干すとき、
パンパン!と手のひらでたたいて伸ばして竿にかけていました。
テレビで「いなかっぺ大将」が赤いふんどしをしめていたので、
ふんどしの存在は知っていましたが、
赤くないふんどしもあるんだ!と衝撃を受けた幼児の私でした。

「おじいちゃんのふんどし、赤くないし、長くない」
きっと、私がそんなことを言ったのでしょう。
ここは覚えていませんが、
その後、じいちゃんが話してくれたことを、思い出しました。

招集されて戦地に赴いていたおじいちゃん。
小笠原沖で乗っていた艦が沈没し、
父島まで泳いで助かった、と。
泳げなかった戦友は死んだ、と。
泳ぐ途中、フカ(鮫ですな)に襲われないように、
ふんどしを長く伸ばして泳いだ、と。
フカは自分より大きなモノは襲わないから、と。
ふんどしを伸ばして自分をフカより大きいモノだと思わせた、と。

今、冷静に考えると、都市伝説や創作もまじったような話。
もしかすると、おじいちゃん本人じゃなく、
おじいちゃんも聞いた話だったのかもしれません。
でも、これが、唯一、おじいちゃんから聞いた戦争の話。
実際、どこの部隊で、どこの戦地にいたのか…。

調べてみよう。

2025年にやるべきことが一つができました。
海軍にいたのか、陸軍にいたのか、
そこから調査開始です。
今は便利ですね。
検索すれば調査方法がばんばか出てきます。
一筋縄でいきそうにありませんが、細くても糸はつながっています。
わかっているのは招集されたときの所番地と名前。
ここからスタートです。

三十代前半で招集されたおじいちゃん。
戦争が終わって、冬になって広島に帰ってきたら、
長女が被爆死して、家族全員が被爆者になっていて…。
これまで母の視点でしか当時を調べてこなかったけれど、
被爆者の家族を抱えて戦後を生きたじいちゃんも、
主人公のひとり。

しわしわによれたプリントを、
手アイロンで一生懸命に伸ばしています。












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