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母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 2

2.米国での被爆2世としての体験

20代の頃、…もう30年以上前、あ、いや、40年近く前の話です。
バブルまっさかりの1986年の夏、アメリカのカリフォルニア州の山の中にあるサマーキャンプに、スタッフとして参加していました。そこは現地アメリカの子どもたち、下は5,6歳から上は15歳まで、100人ばかりの子どもたちが集ってきていました。2週間、寝食を共にしながらスポーツやゲームを通じて親睦をはかっていくという、いわゆる夏休みの子どもキャンプです。子どもたちは2週間単位で入れ替わるのですが、スタッフは一夏そこで過ごします。夏なので、当然、8月6日が巡ってきます。

8月6日。
広島の原爆の日です。
広島で生まれ育った私は、毎年、どこにいても8月6日は黙とうすることが、身体にすりこまれていました。その年も例外でなく黙とうしました。でも原爆を落としたアメリカを責めているようにとらえてほしくなくて、皆が集まる広場や大勢の前ではなく、なるべく人目につかない木陰でこっそりと一人で黙とうしていたのです。
そこを10歳の少年に見つかりました。ブライアンと言う名前のカリフォルニアの男の子です。くすんだ金髪のやせっぽちの少年です。彼は忍者やテレビゲームが大好きで、日本という国に興味を持ってくれていて、日本人の私に懐いてくれていました。

目を開けると、そこに彼がいました。
「何してるの?」と問われました。
黙とうって、英語でなんて言うんだっけ? スマホを持っていればすぐに翻訳ソフトを開くところでしょうが、時代はまだ昭和です。知ってるいる範囲の単語を並べて答えました。
「今日は広島の原爆の日だから平和を祈ってるんよ」と。
「ヒロシマ?」彼は純粋な目のまま教えてくれました。「学校で習ったよ。今も大きな穴があいて放射能がいっぱいなんでしょ」
おいおいおい、なに言ってんだ? 昭和とはいえ、原爆が投下されてから40年以上たっています。
「ちょい待ち。今は緑も花をいっぱいで、大きなビルもあるし、野球場もある。たくさん人も住んでいるよ」
「え! 人が暮らせるの!?」
「暮らしてるよ。私も暮らしてる。だいいち私のお母さんは原爆が落とされたときそこにいたんだよ」
「お母さん、生きてたの!?」
「お母さんが生きてたから私が生まれたんだよ」

それから彼に問われるまま、母から聞いていた母の被爆体験を話しました。おそらく彼は学校で原爆は正しかったと習っていたはずなんです。いつも正しいアメリカが早く戦争を終わらせるために落とした爆弾だって。でも、彼にとっては、親しくなった日本人の母親がそこにいたことを知った夏にもなりました。
40年近く前の話です。10歳だった彼も、もうすぐ50代。アメリカの政治や経済を支えている年代です。残念ながら、今は音信が途絶えていますが、彼が一年に一回、いえ、数年に一度でも良いので、『そう言えば子どものときにこんな日本人に会ってね…』と友達や家族に話してくれていたらいいなって願っています。私がお話しする母の体験は、そのとき、ブライアンに語ったものです。

*ここまで読んで、すでにお気づきになった方もいらっしゃるのでは?
 短編小説『家族伝承 …の母』の元になった話です。

次回【陽子は9歳でした】へ つづく

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