連作短編小説「婿さんにいってもいいか」5月
【五月 初めての田植え】
「ええ天気になって、えかったのぉ」
朝九時。
迎えにきてくれた町役場の三浦照空が、軽トラの運転席から顔を出して声をかけてきた。
「日焼けせんようにしとかにゃ」
僕、早川敬太はニコニコと笑ってうなずいて、手拭いを首に巻いた。
この町にやってきて一ヶ月。
ついに、この大イベントの日がやってきた。
田植えである。
ノンフィクションな生き方を求めて、この町に農業研修生として暮らすようになって、この日を待ち遠しく指折り数えていた。米作りの現場なんて初体験だ。恥ずかしい話、米をつくるには何か資格がいるのかと思っていた。だって、日本人の主食たる米を栽培する田に入るからには、国家試験とまでいかないでも、なんらかの立派な肩書きがいるように思えていたのだ。ところが、大人も子供もじいちゃんもばあちゃんも、皆、田に入れる。
それだけじゃない。
蛇や蛙まで平気に田に入れる。
しかも土足で!
なんて驚いてみせたら、そんな僕に三浦照空は驚いていた。
いいじゃないか、どうせ、都会育ちの東京モンだよ、僕は。
田靴を手に、サンダルばきで助手席に飛び乗った。
「サイズがあわんかったんか?」と照空が田靴をアゴで指す。
「いや」笑顔を答える。「裸足で入ってみたいんだけど、田んぼに」
「……」照空が、またしても驚いてくれた。「マジで?」
「駄目か?」
「ヒルがおるかもしれんで」
ヒルも見てみたい。「田んぼの持ち主が嫌がるかな? 裸足で入ったりしたら」
「そがぁなこたぁないと思うけど」照空は肩をすくめた。「森脇課長はそがぁなことは言わんだろうて」
僕が田植え体験させてもらうのは、役場農林課の森脇課長の田んぼだ。この地域ではゴールデンウィークに田植えするのだが、休日返上で田植えする課長の手伝いをさせてもらうことになったのだ。手伝いになるか邪魔になるかは乞うご期待ってとこか。
農林課職員の三浦照空は休日出勤でもなんでもない。事業担当者だからってんで俺につきあわされるらしい。だけど聞いた話では、三浦照空は課長の娘と付き合ってるらしいから、別に嫌でもないんだろう。
昔ながらの梁と土間のある大きな大きな家が課長の家だった。
赤茶色の石州瓦がのっかっていて、土間に入ると薄暗くて、もやぁ~っとした空気があって、そして…。
「お、来たのぉ」方言で出迎えてくれる主人がいる。
「お、おはようございます」
いつも役場庁舎内でも作業着の課長だが、今日は念入りに『田舎のおっちゃん』してる。よれよれの白いTシャツかと思えば着ているのは肌着だ。年季の入った作業ズボンに田靴。そしてツバの広い麦わら帽子。とても役場の課長とは思えない。
「田靴のサイズがあわんかったんか?」課長にも同じ質問をされた。
「あ、いや」あわてて尋ねる。「裸足で田に入ってもいいですか?」
「裸足で?」課長は楽しそうに笑った。「まぁ、好きにせぇや」
よっしゃ、許可はもらった。
と、奥のほうからくぐもったようなエンジン音が聞こえてきた。
「ありゃ、まった、じいさんが張り切りすぎよる」課長が蔵のほうへ目をやる。「照空よ、ちょっと、てごしちゃってくれるか」
「はい」
エンジン音のほうへ三浦照空がすっ飛んでいく。どうやら苗を運ぶ運搬機を、課長の父親であるじいちゃんが動かそうとしているみたいだ。蔵から赤い小さなトレーラーが出てきて、遠目にもそれがわかる。照空が手伝おうとしているようだが…なんの、まだまだ、じいちゃんの方が扱いがうまいみたいだ。
課長に目をやると、課長は「ふん」と鼻で笑って僕を見た。
「さ、田へ降りようか」
家の前の道を抜けあぜ道を降りると…サーッと視界に広い数枚の田が開けた。
「うおー」思わず感嘆の声がもれる。
これ、全部、田んぼなのか!
もちろん、全部が課長の家の田じゃないけれど、でも、全部、米ができる田んぼなのだ! 田おこしされて田植えを待っている土色の田んぼ。泥の匂いが漂ってくる。これが緑の田になり、秋には稲穂が風にゆれる黄金色になるに違いない。
課長の田んぼも、すでに田植えは始まっていた。
と言っても赤い田植機が一台活躍しているだけだったけれど。操縦しているのは課長の息子らしい。もう二枚の田んぼに小さな青い苗が整然と植え付けられていた。
「おはようございます!」
エンジン音に負けないように叫ぶと、田植機の上から赤茶けた野球帽をかぶった課長の息子が会釈を返してきた。一列すませて戻ってくると田植機の運転を課長と交代した。
「おはようございました」なぜか過去形になる挨拶が方言。「こっちを、てごぉ(手伝って)しちゃんさる?」
結局、じいさんが操る運搬機に乗せられて降りてきた三浦照空と僕は、課長の息子に指示されるまま、手に数輪の苗を握り、田に入った。
正確に言うなら田のすみっこに。
そう、機械では届かない田の角ッコに手植えで植えていくのが、僕たちに与えられた作業内容なのだ。目立たないけれど、地道で大切な作業に違いない。
田を前にして、僕は深呼吸。
これから競泳に飛び込む水泳選手のごとく準備体操のように首をぐるりとまわした。それまで履いていたサンダルを脱ぐ。
いざ、出陣!
最初の一歩を踏み入れる……ズズズボボボボボ。
瞬時にして足首が埋まり、ふくらはぎまで冷たい感触があがってくる。
それが、ねっとりとした生暖かさに変わる。
う、うへぇ。
こ、これが、田んぼだ。
まさに世紀の一瞬を迎えたような気がする。
誰かに胸をはって自慢したいような…。
辺りを見まわすと、三浦照空も、課長の息子も、じいさんも、皆、下を向いて作業に勤しんでいた。
…こうしちゃいられない。
僕は割り当てられた苗を手に、見よう見まねで田植えを始めたのだった。
一時間もしていないのに腰がギシギシ言い始めた頃、課長の奥さんが軽トラにのってやってきた。「十時だけぇ、タバコにしちゃんさい」と。
「え?」
僕、タバコは吸いませんと断ろうとして気が付いた。タバコを吸わない三浦照空が、いそいそと田から上がって軽トラに近づくのを。それから課長の息子もじいちゃんも。見ると、課長の奥さんがお盆にカップを乗せていた。そっか、タバコにするってのは「お茶にしましょう」ってことなんだ。
コーヒーがつがれたカップを手渡される。
ゴク。
うへ、甘~い。
コーヒーはブラックが好きなんだけど、この町で誰かの家に行くと、ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーが出てくる。砂糖は貴重品だった昔の名残なのだろうか。お客さんには貴重品でもケチケチせずに大盤振る舞いする風習なのだろうか。ありがたくいただく。
再び、田植えに戻るのだが、これまた一時間しないうちに課長から声がかかる。
「はぁ、おいて昼にしようで」
待ってました。ちょうど腹も減ってきたとこ。
じいさんの操る運搬機に皆が腰かけて家へ向かう。
なんと昼食は『おおごっつぉ』だった。
寿司があるわ、刺身があるわ、天ぷらがあるわ、唐揚があうわ、トンカツがあるわ、そして、ビールがあるわ…。
ビールは嫌いではないけれど、でも、昼の日中から呑むなんて…。
だけど断れるはずがないこの町のビール。
グビグビグビ。
汗をかいた身体が気持ちよく吸収していってくれる。
あー、いい気持ちだー。
ちょっと横になりたくなる。
ちょっと、ほんのちょっとだけ。
…。
そのまま三十分くらい寝てしまっていた。
課長の家の大広間で。
外からきこえたエンジン音にあわてて目がさめて飛び起きたら、同じように隣で飛び起きた三浦照空を目があう。
課長とじいさん、息子の森脇三代は、すでに田に向かって降りていた。
あわてて追いかける。
「まぁ、やおうやれぇや」
課長が笑ってくれたのをいいことに、ちょっと酔いがさめるまで…と三浦照空とアスファルトの上に寝そべって課長達の作業を見守った。
「なぁ、」不意に三浦照空に声をかけられた。「なして、こがぁな町に来たん?」
「え?」
「なして、農業したい思うたん?」
突然の質問ではあるが、誰もが僕に問いかけてくる質問だ。そして、僕自身、よくわかっていない質問でもある。
「田舎で暮らしてみたいと思って」
「経歴みたらさ、アメリカとか、ヨーロッパとかも行っとるじゃろ?」
「…うん」
自分が何をしたいのかわからずにバックパックに寝袋をつめて背負って旅をしたことがある。
東京で教員をしている両親。
サラリーマンの兄。
大学院生の姉。
何不自由ない生活。
でも不自由もしてみたくて三万円だけ持って海外に出た。
気に入った土地があれば、ビザが切れてもそのまま不法就労してでも居残ろうと思った。
だけど、結局は復路の航空券が有効なうちに安全な日本に戻ってきてしまった。
これまで外ばかり向いていた目が日本に向いたとき、田舎を自慢する奴に出逢った。
バイト先の同僚だったのだけど、出身地の自慢をやたらしていた。
食い物がうまいとか、星空がきれいだとか。
そいつの田舎が山陰だったのだ。
次の日、たまたまインターネットで、この町が農業研修生を募集しているのを見つけて応募したら受かってしまったのだ。
これを一言で説明しにくいし、この感情を言葉にして誰かに話したくはない。
三浦照空はいい奴だけど、少なくともこれを語るほどの存在ではない。
「三浦さんはさ、」逆に尋ねてみた。「どうして、この町に戻ってきたんですか?」
「長男だけぇ」あっけない返事が戻ってきた。「寺を継ぐように育てられて学校も出て、いずれ戻ってくるなら早いほうがええかぁ思うて」
…そんな理由もあるのか。
その後二人して会話もなく空を眺めていたら…はっ!
「三時のタバコにしようって!」
その声に気付かされた。いつのまにか寝ていたのだ。
アスファルトの上で大の字になって。
え?
ええっ?
あわてて起きあがると、同じように戸惑いの表情を浮かべた寝ぼけ顔の三浦照空が隣にいた。
「二人とも寝てたの?」
目をしばたいて声を見上げる。
太陽を背に課長の娘が立っていた。
「はい、じゃあ、これで目を覚まして」
冷たい麦茶がはいったコップを渡された。
「あ、ありがとう」
それから夕方までは一生懸命働くつもりだったのだけど、五時になると課長が言った。
「はぁ、今日はおこうで」
結局、僕と三浦照空は二人で六列も田植えしていなかった。あとは三代の森脇家の男が田植えをすませていたのだった。
たいして手伝いもしないのに、夜もしっかりご馳走になって帰路についた僕たちだった。
このときになって判明した。
都会育ちの僕にとっては初めての田植えだったのだが、お寺に生まれて、家に田のない三浦照空にとっても生まれて始めての田植えだったのだと。
【六月 ゴー、ゴー、江の川】に つづく
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