【短編小説2/4】家族伝承  …の母

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娘に指摘されて気がついた。
ほんとだ。
母の遺品のクッキー缶を前にして、はぁ~と息がもれる。
まだまだ若い世代に道をゆずるつもりはないけれど、こんなへっぽこな見落としがあると、ちょっと弱気になる。って『ちょっと』だけ。すぐに忘れる。バブル真っ盛りに学生時代を過ごした私は、いつも強気。
初めてアメリカにホームスティに行ったのは、平成になって最初の夏休みだった。本当はアメリカの大学に留学して映画監督になりたかった。でも、それは夢で終わった。自分の学力と親の財力では夢でしかなかった。わかってる、それは言い訳。本気で目指すなら道はあったはず。必死にとりくめばその道は開けていたはず。けれど、そこまで一生懸命に努力する覚悟も勇気も私にはなかっただけ。自宅から一番近い大学には進学させてもらえた。『教育に税金はかからん』と言う家訓のおかげで。それだけでも恵まれていた。  
近所に住む幼馴染みがアメリカにホームスティに行くと母が耳にしてきた。回覧板をお隣に持っていってきいたらしい。その幼馴染みは地元ではお嬢様学校と言われる短大に進学していた。見栄っ張りの母は、私の進学先のほうが偏差値が高かったので、しばらくは勝ち誇った顔をしていた。それから日もおかずに、私も夏休みにアメリカに行く計画がわきあがった。アメリカ映画大好きな私にとってはラッキーこの上ないチャンス。ふってわいた幸運にバンザイの嵐だったのだけど、嬉々として準備にとりかかったのは母のほうだったかもしれない。
そのホームスティ先でホストファミリーが私に話を持ち掛けてきた。『来年の夏にサマーキャンプに参加できる日本人を探してるんだ』って。往復の航空費も出してくれるし、食費もかからないって言う。これまたラッキーこの上ないチャンス。ふってわいた幸運にバンザイの嵐だったので、母が反対するとは思ってもいなかった。
短大を卒業する幼馴染みは地元の有名どころの企業に就職が決まっていた。最終的に母の反対を押し切る形で、翌年も渡米した。出発前夜に母が恨めしそうに吐いた言葉が頭から離れなかった。
『母さんはアメリカが嫌いなんじゃけぇ。原爆落としたんはアメリカなんじゃけぇ。』
九歳のときに被爆した母の体験は、幼いころからきいていた。母の姉がひどい大やけどを負って苦しみながら亡くなったことも知っていた。『米びつに米がない』とうわ言をくりかえしくりかえし息をひきとった12歳の女の子。それが母の姉だ。祖母の家の仏間に飾られている白黒のモヤッとした写真は、どことなく自分に似ている気もした。
8月6日は、カリフォルニアの山奥のキャンプ場で迎えた。日本との時差を計算して黙とうした。広島で生まれ育った私の身体には、8月6日は黙祷するものだとすりこまれていた。それでも大好きなアメリカを責めていると思われたくなくて、キャンプ場の隅っこで静かに黙祷した。そして、九歳のキャンパーに見つかった。
そのサマーキャンプには5歳から12歳までの子どもたちが集っていた。アメリカのどこにでもあるサマーキャンプで、夏休みの二週間を親から離れて過ごす。乗馬や水上スキーなんて日本人からみたらセレブなアクティビティを楽しむ二週間。ヨーロッパや南半球からもスタッフが参加していて、日本人スタッフとして私の仕事は、日本の文化やゲームを紹介することだった。二週間も親から離れていると、もちろんホームシックになる子どもたちもいる。日本のアニメが好きな九歳のブライアンも、ホームシック気味で、なにかあれば私のそばにきては懐いてくれていた。
「なにしてるの?」
一分の黙とうをし終わった私は、目をあけて彼を見つけた。えーっと、黙とうって英語でなんていうんだっけ。小難しい単語は知らない。そこで、今日は広島の原爆の日で、その時間に平和を祈っていたんだと答えた。ヒロシマというワードは、トーキョーやキョートとは違ったニュアンスで受け止められる。パールハーバーと返してくる年配者もいるが、大半のアメリカ人は神妙な顔つきで歴史で習ったよ、と返してくる。なかには謝罪されたりもして。ブライアンも原子爆弾とヒロシマの単語は知っていた。学校で習ったと。おそらく原爆投下は正しかったと教育されているんだろう。早く戦争を終わらせるために落とした爆弾だと。私が広島で暮らしていると言うと、ブライアンは大きな青い目ん玉がこぼれおちんばかりに驚いた。
「人間が暮らせるの? 今でも大きな穴があいて放射能がいっぱいなんでしょ?」
「んなこたぁない。立派なビルもあるし、野球場もある。」
さらに、母が被爆者だと言うと、叫び声をあげた。
「生きてるの?」
「生きてるよ!」
母が生きのびたから私が産まれたのだ。
あとで思いだすことになる。この瞬間だった。私が初めて母の被爆体験を伝承したのは。母の被爆体験を継いでいかねばと焦燥感にかられたのは。映画監督になりたかったのも、そんな物語をつむぎたいと思っていたからだと。
母の姉が亡くなった年齢で、私はアメリカ映画を好きになり、アメリカという国に憧れた。明日食べる米の心配をすることもなく、好きなことだけをして大学も通わせてもらった。お気楽な大学生だった。これからの日本や世界のこと、自分自身のこともなんとかなると考えていた。ちゃんとしたことを考えるのは、ちゃんとした人なんだから、と。自分はちゃんとした人じゃないから放棄していた。教育者でも政治家でもないし、NPОの職員でも宗教家でもない。私の出番はない、と。
だけど、私は母の娘で、母の被爆体験を伝承できるのは私だ。公募されている家族伝承者を名乗れなくても、伝承はできる。
クッキー缶のふたを開けて紙の束を取り出す。黄ばんだチラシの裏紙に綴られた母の字が出てくる。
さぁ、出番だ。

家族伝承 …の母の母 に つづく

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