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母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 12

12.母が抱くアメリカへの感情

前回「これは母からの宿題だ」と述べましたが、それに気が付いたのは数年前。
10代だった未熟な私は、なーんも深く考えることなく、アメリカが好きになります。
最初に夢中になったアメリカ映画を見たのは中学一年生のときです。
母の姉が亡くなったのと同じ12歳。
米の心配をすることもなく、
好きなことだけをして中学高校時代を過ごし、
アメリカに憧れ続け、
大学卒業後も就職もせず、
アルバイトをしては、
バックパックに寝袋をかついでアメリカへ飛んでいました。
最初は何も言わず送り出してくれていた母が、ある日、ポツリと言ったのです。

「ああ、もう、勝手に行きゃあええ。母さんは本当はアメリカが嫌いなんじゃけぇ。アメリカが原爆さえ落とさんかったら、母さんの人生は違っとったんじゃけぇ。姉ちゃんも死なんですんだんじゃけぇ」

何年かたって、その話をしたら、「そがぁなこたぁ言いやせん!」と否定していましたが、言われた身は覚えているものです。

母の手記は、前述の冊子以外にも、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に保管されていました。
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館。
ながったらしい名前。
でも、それぞれの言葉に意味があるのでしょう。
国立だからこそ必要な名称。
国の補助金を活用するために欠かすことができない単語。
あちらこちらでそれらの理由を耳にしたことがあります。
そんなことより、中身です。
(もちろん、中身をよりよく維持していくために、必要な名称であることは理解していますヨ)
この建物、平和公園内にあります。
ひろ~い階段をおりていくと入口があります。
入場無料です。
入館すると、さらになだらかなスロープがあって、地下空間へいざなわれます。そして行き着いた先にあるのが360度焼け野原の写真に囲まれた空間。
はじめてそこに入ったとき、正直に白状すると、私は何も感じませんでした。それより、その先にあるデータベースのほうに興味が先走っていました。
先日、父を連れて行きました。
父にデータベースを見せるために、そこを足早に通過しようとしたのですが、父が立ちすくんでしまったのです。
父は被爆者ではありません。
でも、被爆後半年の焼け野原に立った記憶が蘇ったのです。
父の物語は、次回、紹介する予定です。

母の手記に戻します。
この追悼館にあるデータベースに名前を入力すると、保管されている手記が表示されます。
その用紙は、1995年に原爆手帳(…と呼ばれる被爆者健康手帳)を持っている被爆者へアンケート方式で配布されたもののようです。
母が59歳のときに書かれたものでした。
パソコン画面で見つけたとき、『ああ、母さんの字じゃ』と嬉しくなりました。内容は私がこれまで目にしてきたものと、ほぼ同じでした。

手記はもう一枚ありました。
アンケートの追跡調査の形です。
約20年後に書かれた二枚目は、恨みつらみが綴られていました。
それまで母のダークサイドから目をそらせてきていたので、
正直、驚きました。
画面上で一読してあわててホーム画面に戻りました。
見てはいけないものを見てしまったようで、心臓がドキドキしました。
まさか今になって私の目に触れるとは母も思いもしなかったでしょう。
ごめんね、母さん、読んでしまったよ。

その日は、あわてて帰路についたのですが、それでも、母の体験をまとめていくうえで避けて通れないと思い、覚悟を決め、3か月後にもう一度祈念館を再訪しました。
入場無料ですから何度でも行けます。
身分証明書を示し、コピーを出していただきました。
一部抜粋します。

『子ども時代に戦争に巻き込まれることは本当に不幸です。小学3年生も4年生も勉強できず、5年生になって、ようやく勉強らしい勉強が始まったが、まわりの人が何もわからないままばたばたと死んでいくので自分もそうだと思い、勉強する気にならなかった中学から勉強したが戦地から帰ってきた父は仕事がなく、家のために一生懸命働いて定時制高校へ行きました。私の子ども時代をまどうてほしいです』

まどうとは広島弁ですね。
弁償しろの最上級です。
それも銭金でなく、全て元通りにして返してごせぇというレベルです。
無理な話です。
原爆、戦争は無理なことばかり生み出します。

だからといって、母は毎日365日24時間、嘆き苦しんで暮らしていたわけではありません。
なんといっても太陽の陽子さんです。
登山が趣味で、父と一緒に国内外のトレッキングにも出掛けていました。

とは言っても、アメリカ本土には決して足を踏み入れることがなかった母。
理由は聞くまでもありません。
聞いたこともありません。
聞くと聞きたくない返事がかえってきそうで。

母が60代のころ、父と一緒に、ニュージーランドの登山ツアーに出かけました。
現地で、ニュージーランド以外の国々から集った旅行者向けグループに組み込まれました。
そのグル―プの中に同年代のアメリカ人女性がいました。
エミリーと言う名前です。
同じ景色をみて、
同じ道を歩いて、
同じ食べものを食べるのです。
日がたつにつれ、片言英語と身ぶり手ぶりで、仲良くなりました。
最終日に住所をやりとりしていて、
母の住所が『ヒロシマ』と知り、
さらに母が被爆者であり、
姉を亡くしていると知ったエミリーは、泣いて謝ったそうです。
母もエミリー個人に泣かれるとは思ってもいなくて、
二人で涙を流してハグして、
その夜、ツアーの皆でジョンレノンのイマジンを歌ったそうです。
父も母も歌詞がわからないのでハミングだったようですが。

歴史や国を恨む気持ちは薄まりませんが、
人間同士は許しあい理解しあえることを実証してくれました。

でも、母は生涯、アメリカ本土を訪れることはありませんでした。

次回 【】に つづく

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