連作短編小説「婿さんにいってもいいか」8月

【八月 夏、盆、そして…。】

 夏を暑いと思うようになったのはいくつぐらいからだったろう。
 九十一歳の石田ヨシノは、窓越しに真っ青な空を見上げて思った。
 『シノさん』と呼ばれ始めた女学生の頃、すでに『夏=暑い』ものだった。浴衣のすそをまくりあげ、弟を背負ったまま川に飛び込んで遊んでいた頃、『夏=遊ぶ』季節だった。水仕事もつらくなく『夏=手伝いも楽しい』季節だった。
 確かに温暖化とやらの影響で、年々、夏の暑さは過酷なものになってきている。蚊帳の中で団扇で風を作っていたのが懐かしい。扇風機を贅沢品と受け止めていたのが前世紀のようだ。
 …あら、どっちにしても前世紀だわね。
 冷房が効いた涼しい屋内から、朝から炎天下の屋外を眺めながら、シノさんは『夏』を思い出していた。
 育ち盛りの子供たちを抱え、戦地にいる夫と息子たちを案じ、芋とカボチャを炊いていた毎日。汗だくで防空頭巾をかぶって防空壕に駆け込んだ夜。お手玉にいれていた小豆を出して煮て食べた戦後。どうしても『夏』の思い出には『戦争』がついてくる。平和な世の中になり、孫と一緒に海水浴にいった思い出もあるはずなのだが。

 「シノさん、」部屋のドアがあいて、栄子ちゃんが入ってきた。「毎日、暑いねぇ」
 「夏だけぇなぁ」ここんとこ毎日繰り返している挨拶を返す。「だが、わたしゃあ、掃除や洗濯をするわけでもなく、こがぁして、ここに座っとるだけだけぇ、暑いゆうて文句いうちゃあ罰があたるわぁのぉ」
 「うそばっか」栄子が声をたてて笑う。「座っとるだけでのぉて、本読んだり、ラジオきいたり忙しゅうしとるじゃない?」
 「活字の本の売れ行きが悪いいうけぇ、社会に貢献しとるだけよ」
 「そりゃあ、シノさん、本を買うてから言わにゃあ」
 シノさんが読む本は、もっぱら町の図書館から借りるものだ。
 「ほいだが、栄子ちゃん、」ここからはシノさんの持論。「よぉ考えてみんさい。私が本を借りるけぇ、図書館の利用率もあがって、予算もついて、職員も増えて、新しい本も購入できる。本屋で一冊本を買うより、よっぽど社会貢献に役だっとるじゃない」
 「…なるほど」栄子はテーブルに置かれた図書館の本を手にとった。「これは、もう返すん?」
 「お願いできるかい?」
 「御意」
 「ところで、ありゃあ、今朝、新しい職員いうて紹介があったのは幾つの人ね?」
 今朝、朝食のときに新しい臨時のへルパーさんが紹介された。
 「役場を定年退職されて十年言うとっちゃったけぇ、七十歳くらいなんじゃない?」
 施設には六十代の入居者も多い。七十歳が六十歳を介護する。どことなく妙な仕組みだが、本人達はそうでもないらしい。子供の頃、年の離れた弟妹を世話したのを思い出すそうだ。
 「七十歳かい」九十一歳のシノさんから見れば、七十歳なんて自分の子供の年代。「臨時職員に定年はないのかい?」
 「…シノさん、ここに再就職するつもり?」
 「駄目?」
 「…私が辞めるときに後任に推薦するわ」

 何年か前、『沖縄のおばぁは強い』ってテレビで言っていたけれど、島根のおばぁも強い。その証拠に…。
 「今日はデートかい?」シノさんは、突然、スルドイ問いかけを投げてくる。
 「な、なに、突然…」
 「夜勤明けでしょうが?」
 「うん、今から帰るとこ」
 「お盆だから三浦照空も休みなんじゃないかね?」
 「お盆だから忙しいのよ。お寺の息子だもん」お盆で忙しいのは照空の母なのだが。「今日は同窓会。お盆で皆、里帰りしてきてるから」もっとも同窓会は夕方からだから、それまで照空が誘ってくれればどこかに行けたのだけど。
 「例の男は?」
 シノさんはスルドイ二球目を投げてきた。
 「花火大会の夜、シノさんが抱きついた男?」
 栄子は負けずに直球を返した。農業研修生の早川敬太。栄子にとっても気になる存在ではあるのだけど、シノさんにもなんだか気になる存在らしい。
 「まめにやっとるんかの」
 「携帯の番号でもきいてきてあげよっか、シノさん?」
 「その前に、番号を聞き出せるんかの?」
 「その前に、年上の女が好きかどうかもきいてこぉか?」
 「その前に、同窓会で同級生が何人独身かみておいで」
 「…御意」
 言葉ではシノさんに叶わないとみて、栄子は降参の印に深々と頭をさげてみせた。それから、休暇に入る前に図書館の本以外にもリクエストはないかと、友人であるシノさんの頼みを聞き入れ、「じゃあねぇ!」と陽気に手をふりドアの向こうに消えた。

 かわいい娘だ。
 シノさんは窓の外に視線を戻した。
 幸せになってもらいたいもんだ。
 そして目を閉じる。
 夏休み、お盆、同窓会……かぁ。
 夏、お盆、戦争……と連想してしまう世代は幾つくらいまでなんだろう。

 「ごめんっ、遅くなっちゃった~」
 栄子は香夢里に駆け込んだ。ハーブ園に隣接した飲食店だ。普段は観光に訪れた観光客でにぎわうが(にぎわないときもあるが)、今日はここで懐かしい顔が集った同窓会が開かれていた。
 「栄子、遅い、おそいー!」
 同級生で栄子と同じ年にUターンしてきて農協に勤めている日野原小春が、もう顔を赤くさせていた。
 「栄子、先にはじめさせてもらったで」
 幹事を勤める上田耕一がビールとコップを持って栄子に座れとうながす。
 「まずは、駆けつけ三杯」
 「はいはい、」栄子はコップになみなみと注がれたビールをぐいっと飲み干した。「はぁ、みな、集まったんね、定時きっかり?」
 「まっさか。邑智郡時間は守られとるわいね」
 町では町の時間が流れている。五時集合で四時半に来る人間はいない。五時に来るのは幹事だけだ。気の早い人間は五時半に足を運び、たいていは六時に集まってくる。七時までは普通の感覚だ。さすがに八時は少ないけれど、それでも平気な顔して参加できる時間でもある。…もっとも会合の内容によるけれど。
 同窓会には十八人集まるときいていた。町で暮らす六人と、お盆で帰省中の十二人。かつての栄子のように広島で働くOL、松江の学校に勤務している教員、東京に嫁ぎ子供を三人連れて帰省中の主婦…。博士とあだ名をつけられていた生徒会長はアメリカの大学院に通っている。来月からNASAの研究所に助手として赴くらしい。同じように町の中学校に通い卒業したのに、その後の人生はさまざまだ。
 「聡美はイギリス人と結婚したんだって!」
 今日は欠席の子の噂になる。
 「うっそ、フランス人ってきいたよ、あたし」
 「ううん。イギリス人よ。それでフランスに住んでるの」
 「違う、違う。離婚したんだって。イギリス人と離婚して、フランス人と再婚したのよ」
 早いようで、正確なようで、それでいて中途半端な情報は相変わらずだ。
 「淳一は肝臓やられて入院しとるのはホント?」
 「邑智病院におるらしいけぇ、あとで皆で行ってみようや」
 「若いのに肝臓ゆうて、呑みすぎかぁ?」
 「仕事がキツイんじゃないんかのぉ」
 「そりゃあ、わしじゃあ」広島のサラリーマンである和彦が溜め息。「希望退職者にはちゃんと退職金でるけぇ、わし、辞めて帰ってこよぉ思ぉとるんじゃがのぉ。耕一、わし、つこぉてくれるかぁ?」
 父親の跡を継いで建設会社の専務になっている幹事の上田耕一は苦笑い。
 「わしんとこも、公共事業削減ゆうけぇ大変よのぉ」
 「でも、静香が稼いでくるけぇ、ええじゃん」
 耕一の妻・静香も同級生。県内でもトップクラスの優良企業である銀行の支店に勤務している。日野原小春と栄子と静香は中学・高校と仲良し三人組だった。
 「静香、産休はいつから?」
 日野原小春がビールを呑みながら尋ねる。
 「え?産休?」栄子は目をぱちくりさせた。「産休って、静香、妊娠したのー?」
 「え。えへ」静香は照れくさそうに頷く。
 「うっそー、おめでとー!」叫んでから、夫である耕一の肩を叩く。「おめでとー!もぉ、知らんかったわいねー!いつ、予定日?」
 「三月」静香が幸せそうに微笑んだ。
 「もぉ、静香ったら~。早く教えてよねぇ」栄子が静香を小突く。
 静香は言い訳するように慌てて言った。「実は、さっき発表したばかりなの」
 「ほぉよ、」日野原小春が得意そうに鼻をならした。「栄子、遅れてくるけぇよ」
 「ごめん、ごめんー」栄子は鼻にシワをよせて小春に突っかかった。「他に、何かききもらしてない、私? 小春、あんたの結婚話とかは?」
 「あったら、真っ先にあんたに話しとるわいね」と小春。それもそうだ。暇さえあれば小春からスマホにLINEが入っている。「だいたい、一人娘の私の婿養子にきてくれる人なんて、お見合いでもしない限り、見つけられる可能性は天文学的な数値よ」
 「まぁねぇ」
 先々月、一緒にカヌーした研修生の岡野さつきさんは、この現状に驚いていた。『戦前じゃあるまいし、一人娘だから婿養子っての、いまだにありなの、ここでは?』と。
 そう、あり、なのだ。
 岡野さつきさんは町の老人に最初に『あんたぁ、兄弟はおるんね?』と尋ねられるのが謎だったらしい。それで『兄がいます』と答えると『じゃあ、ええねぇ』と言われて何がいいのか悩んだとか。
 若い娘をみると男兄弟の有無を確認してから嫁の候補に考えるのは農村の習慣なのだろうか。私には弟がいるからお寺の跡継ぎである照空を紹介されたのだろうか。
 「あんたこそ、どがぁなんね、その後?」小春が酔ってすわった目を向けたきた。「照空さんとは?」
 「え。」どうって言われても…。「報告するようなことは何もありません」

 「ありゃ、はぁ、はじまっとるんかいのぉ~!」
 一段と大きな声がして大男が乱入してきた。昔っから太っていた清太だ。ますます大柄になって、汗だく。
 「あっつい、あっつい!冷房はきいとらんのんかいのぉ」
 「お前がきたけぇ暑ぅなったんよのぉ」上田耕一がビールを持って近づいた。「まぁ、呑めや。駆けつけ三杯じゃ」
 清太が開けたドアから外の熱気がムン!と入ってきた。
 その匂いに、栄子は、ふと、学校のグランドを思い出した。
 一学年一クラス。
 決して生徒数が多いわけではない学校。
 人数がそろわないからバスケ部は男子だけ。
 バレー部は女子だけ。
 あとは個人競技のクラブ。
 栄子は陸上部で毎日グランドを黙々と走っていた。
 夏は暑かった。

 栄子は窓の外に目をやった。
 夏を暑いと思うようになったのはいくつぐらいからだったろう。

九月 稲刈り体験隊】に つづく


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