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母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 5

5.ぶどう棚の下で

途中、雨が降り出しました。
ちょうど壊れていない家があったので、その軒先で休ませてもらいました。そこにはポンプの水があったので、口の中をゆすがせてもらいました。黄色い唾がでてきて気持ち悪かったのです。
少し休んでいると、太股がざっくり割れて今にももげそうに、ちぎれそうになっている男の人が走ってきました。
陽子が思わず、『おじさん、すごい怪我じゃねぇ』と言うと、それまで気がつかなかったのか、おじさんは傷をみて、すくんで歩けなくなってしまいました。
大八車に、真っ黒にこげて顔もわからないような人を乗せて大きな声でその人の名前を呼んでいる人もいましたが、呼ばれている人は返事をしていませんでした。

今の東雲あたりまで逃げました。
その一帯は、レンコン畠とぶどう棚がたくさんあり、ぶどう棚の下なら、敵機、次のアメリカの爆撃機が攻撃にきても見えないだろうと、中に入らせてもらいました。
ただ、ここは、『被服支しょう(軍服などを縫製する軍の施設)が近いから次の攻撃目標になるかもしれない、危ない』と言われて、もっと遠くへ逃げていく人もいました。
陽子たちは、おばあちゃんが腰をおろしたとたんに動けなくなり、弟妹と一緒にうずくまりました。陽子が持っていたカバンは、おばあちゃんが枕代わりに敷いてぺっちゃんこになってしまいました。とんでもない爆弾で、とんでもない被害にあっているにもかかわらず、9歳の陽子にとっては、ぺっちゃんこになってしまったカバンのほうが心配で悲しかったのです。

時間がたつにつれて、危ないと言われていたぶどう棚の下も、逃げてきた人でいっぱいになりました。
おばあちゃんは動けないまま、弟たちがお腹をすかせてきました。
家族の頼りは陽子だけです。
陽子は一人で家まで戻ることにしました。
家にはコーリャン弁当があるはずでした。
そうです、倒れずに妹と弟を救った食器棚にあるコーリャン弁当が。

逃げてきた道を、ひとり、とぼとぼとたどり、家まで帰ると、そこに近所にすむ伯母がいました。伯母といっても年齢は5つも変わりません。父親の妹で女学生でした。伯母は祇園の女学校から、焼け盛る広島市内を抜け、熱くなった鉄橋を渡って帰ってきていました。そこで一緒にコーリャン弁当を持ってぶどう棚に戻りました。

その夜は、お母ちゃんも姉ちゃんもどうなったかわからず、市内が焼けて真っ赤な空をみあげていました。

次回【再会】へ つづく
 
 
 

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