母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 10
10.見えないけれど見えたもの
まだまだ続く写真の話です。
『大やけどを負った母の姉を看病する祖母』を写した一枚。
その写真を撮った人と、私はお会いしたことがありました。
何度も、何度も。
そうと知らずに。
私・安芸子は、2のエピソードで紹介したアメリカのサマーキャンプから約10年後、広島と島根の県境にある過疎の町で暮らしていました。
ええ、アメリカに行ったり、田舎暮らしをしたり、さんざん好き放題に生きてきている私です。
二十代後半から七年間、邑智郡(読めますか?「おおちぐん」と読みます)の小さな田舎町で暮らしました。
最初の一年間は「農村体験生」として、野菜や米を育てたり(正しくは、育てる人に教わって失敗を積み重ねたり…ですが!)、ハーブガーデンでクラフト作業をしたり(お手本通りにできず、新製品開発してばかりいました!)、地域の人々にかわいがってもらって(いや、これは、ほんと。…たぶん)、お花見や神楽など四季折々のイベントを満喫しておりました。
二年目からは、恩返し…のつもりで地域振興の仕事に就くようになり、最後の二年はフリーライターとして、現地での暮らしや登山やカヌーなどのアウトドアの発信などもしておりました。
で。
地域振興の仕事をしていた頃、イベントなどで撮った写真を町の写真館で現像してもらっていました。今のようなデジタルの時代ではなく、フィルムで撮影した写真を焼いてもらっていたのです。公的機関から助成金を受けることもあり、その報告書にも写真は必須でした。
はい、お察しの通り、その町の写真館のおじさんが、『大やけどを負った母の姉を看病する祖母』を撮影したカメラマンだったのです。
当時は、その事実を知ることもなく、フィルムを持っていって天気の話をして、現像された写真を受けとってプロ野球の話をして…と、写真館の店主とお客の関係以上でも以下でもない間柄でした。
おじさんが、被爆写真を撮影したカメラマンだと知ったのは、そのおじさんが亡くなったあとでした。
『第一国民学校』
データベースで検索して見つかった一枚を撮影した人の名前をみて、ん?
あまり目にすることのない名字に、私の脳みそが反応しました。
それは、かつて暮らした田舎町の写真館の名前だったのです。
そして、ネットで検索して、うおおおおおおおお!と叫ぶことになるのです。
あの、おじさんが!
白状すると、私は、無口な店主であるおじさんは苦手でした。愛想のよいおばさんが店番していらっしゃると、ほっとしたものです。でも、そんな無口なおじさんが、あの日、写真を撮影したカメラマンだったんです。
そういえば…。
そこで、私に記憶がよみがえります。
『あの写真館のおじちゃんは、昔、広島で被爆の写真を撮ったカメラマンさんなんよ』
当時の同僚が、そう話してくれていたことを。
その時は聞き流していたその言葉を、何年も、いえ、何十年もたってから思い出すとは!
つまりは、当時は、母の被爆体験を伝承していくことに、そこまで熱心に考えていなかった証拠です。
もし、そこで、同僚の言葉に反応して、次に写真館にいったとき、『私、被爆二世なんです。母は段原で…』と話していたら、どう会話が広がっていったでしょうか!
想像せずにはいられません。
おじさんは語りたくなかったかもしれません。でも、同じ場所にいた被爆者の血縁者に、どんな言葉をかけてくださったろうか…想像せずにいられません。まだまだそのときは元気だった母に会ってもらえたかもしれません。母だけではありません。祖母も健在でした。祖母と再会できたかも…。
いま、こうやって、母の被爆体験を伝承する日々を送っているからこそ、後悔してしまう出来事のひとつです。
そうです、こんな大切な出来事が、大量にある後悔のなかのひとつにすぎないのです。
おじさんもおばさんも亡くなられ、今は写真館も閉館し取り壊され、跡地は更地になっているそうです。
おじさんのことを新聞で記事にされていた記者さんにコンタクトをとって、教えてもらいました。おじさんの三男さんが東京で、写真を活用した体験伝承をしてくださっており、連絡をとらせていただきました。
ネットで見つけたニュース映像では、おじさんは、自らも被爆しながら、お母様を探して救護所をめぐるなか、軍の命令で何枚か撮影されたと、語っていらっしゃいました。シャッターを切れない瞬間も多くあったとも語っていらっしゃいました。
おじさん、大変な中、そして、つらい中、あの一枚を写してくれてありがとう。
おかげで、私は、34歳の祖母に会うことができました。
あ、いや、その、厳密にいえば、どの一枚で、どれが祖母か、判明していないのだけど。
でも、あの空間に一緒にいてくれたんだよね、おじさん。
ありがとう。
気がつくのが遅くてごめんなさい。
資料館のデータベースで、おじさんの名前を見つけて呆けている私に、
『第一国民学校の関連ならここに書いてあるよ』とスッと差し出してくださった学芸員さんがいました。それが、6のエピソードで紹介した一冊です。
図書館並みにずら~っと並べられた書籍の棚の中から、迷うことなく一冊を抜き出して手渡してくださった学芸員さん。それは、まるで魔法のようでした。
この人の知識と記憶に中に、ここの資料が詰め込まれているんだ!
まさに生きるデータベースなんだ!
公的機関の職員さんを使わない手はない!
私にそう気づかせてくれた出来事でもありました。
次回【二世への宿題】につづく