母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 14
14.夫
両親の出逢いは、ちょっとこそばゆい話題ですが、私も両親に負けないくらい運命の出逢うがあって、夫と結婚しました。
運命の出逢い。
一言でいうと『海外の国立公園でキャンプしたとき、隣のサイトにいた』人です。二言目を付け加えるなら『そのとき日本人だと思わず会話すらせず、帰国して雑誌で再会』したでしょうか。それに補足する三言目が『私がライターとして寄稿したアウトドア雑誌に夫がお便りを載せていた』となります。そこで『あれ?同じときに同じサイトにおったんじゃん』とお互いのホームページをみてメールをして…となります。おまけにつけくわえておくと『当時、私は頭を丸めていて、スキンヘッドでした』。それはまた別の話につながっていきます。
スミマセン、一言ですまない運命を一言で済まそうとして8行も使ってしまいました。…これで9行。苦行ですな←これがいらん一言。
さて、そうやって巡り会った彼が、半年後に邑智郡に遊びにきてくれて、真冬の江の川でキャンプしたりして、その三か月後の2000年3月に入籍しました。30代半ばの私とまだ20代だった彼。友達からは『まさに2000年問題!』『お前が結婚するとは!できるとは!』とお祝いの(?)言葉をたくさんもらっての結婚。幸せそのものですが、ちゃんと不安もありました。その一つが、『被爆二世』の四文字です。
幼いころから母に『被爆二世じゃってわかったら、結婚できんなったらいけんけぇ、よそであんまり言いんさんな』とすりこまれてきた私は、結婚する前に問うたのです。
「私、被爆二世だけど、大丈夫?」と。
夫、即答。「関係ないよ」
なんてイイ男なんだ!
感激しました。
母にも報告して母も安堵しました。
ところが!
ところが、です。
これは後になって判明したのですが、夫、当時は被爆二世がなんなのか知らなかったのです。
関東で生まれ育った夫は、平和学習を受けた記憶もなく、いえ、受けたのでしょうが忘れてしまっていて、私と結婚するまで広島の原爆の日である8月6日も、長崎の原爆の日である8月9日も、地元が近いはずの東京大空襲の日も、沖縄の慰霊の日も、さらには終戦記念日も特に気にしたことなかったのです。
『広島県外ではそんなもんよ』と知識としては知っていたつもりでしたが、事実として知ったときは衝撃的でした。
ちなみに、夫は歴史にも疎く、私や娘が大好きな織田信長や豊臣秀吉、徳川家康のあれこれを何度話しても忘れてしまう特技の持ち主。なので、大河ドラマを見ていて、歴史ファンなら誰もが知っている逸話やその生涯を、毎回新鮮は気持ちで視聴できるという羨ましい体質でもあります。
とは言え、私にはない技も多種多様もっていて、危険物取扱の免許ももっていて、危険物である私をうまくコントロールしてくれています。
母の被爆体験を語るっていいながら、自分と夫の自慢話をしているようですが、実際、夫がイイ男なのは違いなく、知らないことを知らないままにしませんでした。
カリフォルニアのブライアン少年も、夫も最初は知らなかったのです。
知らなかっただけです。
知ればいいんです。
知ることから始まります。
好きの反対語は嫌いではなく無関心だ、と言われますよね。
興味をもつことが第一歩です。
被爆体験に関わらず、何事もです。
夫はいろんな文献を読み漁り、広島に越してきてからは資料館にも何度も通ったようです。8月6日の早朝に平和公園までジョギングする夫は『短編小説1/4 家族伝承』の登場人物のモデルでもあります。
負けず嫌いで、真面目で、なにごとにも熱心に取り組む夫。
今では私の知らない被爆の知識を持っていたりもします。
ちょっと悔しいです。
次回 【娘】に つづく