母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 19
19.慰霊碑までの道
被爆体験を伝承していくことが、母からの宿題と思っておりましたが、
まとめて語っておわりにはなりません。
今、母の姉のことを調べています。そうです、米びつの米を心配しながら、
12歳で亡くなった玲子ねえちゃんです。
子どものころは、玲子ねえちゃんを思い浮かべるのが恐ろしくてたまりませんでした。玲子ねえちゃんが『私の人生を返せ』と言ってくるような気がしていました。祖母の部屋にあった写真をみるのも怖かったのです。少しでも油断すると、玲子ねえちゃんが出てきて、『あんたが、私の人生を横取りしとるんじゃね』と責めてきそうな気がしていたのです。
夜、思い出しては、布団をかぶって「ごめんなさい、ごめんなさい」と唱えていまいた。
母の被爆体験をまとめていく過程で、意識が変わってきました。
資料館には資料がたくさんあります。
広島の市内各地にも200を超す慰霊碑があります。
母の被爆体験を資料館で語った半年後、玲子ねえちゃんの名前が刻まれた慰霊碑を探しあてることができました。
いえ、探しあてるなんて言い方は大げさです。
探そうと思ったら、いつでもすぐに見つけられていたのですから。
ある日、新聞に段原中学の慰霊祭の記事を見つけました。
玲子ねえちゃんが通っていた第一国民学校が、現在の段原中学です。
2011年、中学校は再開発で移転され、校内にあった慰霊碑も一緒に移転され、その後、毎年8月に慰霊祭を行っていました。
私が目にしたのは、その記事でした。
そういえば…。
去年も読んだ記憶がありました。
母さんのお姉ちゃんの学校だ。
うん…。
読んだ記憶は一度や二度ではありません。
確か、その前の年も、さらにその前の年も…。
いつか行ってみたいな。
そう思って、思っただけで終わっていました。
その年も、あやうく、繰り返すところでした。
とりえず、記事を切り抜いてファイルにおさめました。
初夏の早朝、ジョギング中に、ふとファイルの存在を思い出しました。
母の講話をする前は、毎日のように原稿をそらんじながらジョギングしていた河川敷で。
帰宅して、ストレッチする間も惜しく、パソコンを開いて、記事の検索をしました。
そして、その勢いで、段原中学校にお手紙を出したのです。
メールアドレスがわかれば、メールで済ませていたかもしれません。
直接、電話するのは、なんだか気がひけました。
すると、お手紙を読んでくださった教頭先生が、すぐにお電話をくださいました。
そこから、止まっていた時間が急に動き出したかのように、話がすすみ、私は中学校に訪問することができたのです。
その慰霊碑は校庭の片隅にありました。
被爆で亡くなった生徒さんの名前が刻まれていました。
玲子ねえちゃんの名前もありました。
雨の日でしたが、思わずひざまずいて名前を撫でていました。
「ごめん、遅ぅなった」
その瞬間から、玲子ねえちゃんへのおそろしさは愛しさに変わりました。
会って話したいとすら思うように。
59歳の姪に12歳の伯母はどう反応するでしょう。
「今ごろなにしよるん。遅いよ」と叱られるでしょう。
おそらく、祖母は生前、慰霊碑が建立されたとき、学校から知らされていたと思います。
祖母と母が慰霊碑に名前があったと会話していたのを聞いたような記憶が、なんとなく、します。
なんとなく、です。
慰霊碑を見て触って初めて、うっすら、よみがえる記憶です。
こうやって記憶はうすれていくでしょうか。
伝えていかない限り、消えてしまうのでしょうか。
母が亡くなった今、玲子ねえちゃんを思うのは私だけかもしれません。
母が玲子ねえちゃんと過ごした昭和20年の家族の出来事を調べています。
これが母からの宿題です。
とりかかるのが遅かったですが、
提出期限はありませんし、
単位がもらえなくても、
細々と続けて、
失われた記憶を記録していきます。
ただ知れば知るほどわからないことが増えていくんですよね。
学ぶことには終わりがないです。
私の伝承がギリギリだったと思っていました。
間に合ったと思っていました。
違いました。
たくさんのものを失っています。
祖母や母や叔母にきいて確かめたいことが増えていきます。
玲子おばちゃんにも会って確かめたいことも。
次回 【おいおい話そうと思っていたこと】に つづく