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母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 20

20.おいおい話そうと思っていたこと

この「母からの宿題」を書き始めたとき、
私は諸事情で広島市が認定する伝承者になれなかったと申しました。
「その諸事情はおいおいお話しするとして」としたまま、
話し終えるところでした。

市の伝承者になるには、さまざまな条件がありました。
まず、被爆者である親が健在であること。
短編小説 家族伝承」に記してある通りです。
親・被爆者の体験を原稿をまとめあげたあと、
市の担当者による確認作業の一つとして、
当人である親・被爆者に聞き取り調査が必要だったからです。
もちろん、事実でない被爆体験を伝承するわけにはいきませんから
必要な工程だと理解できます。
しかし、被爆者である親が亡くなっている被爆2世は、
この条件からはずされてしまいました。
被爆者本人が書き残して市の資料となっている体験談があっても、です。
本人の署名がないと伝承者認定されないのです。

ただ、私の場合、これがネックではありませんでした。
家族伝承者1期生募集のとき、私の母は存命でした。
「やってもいい?」ときくと、背中を押してくれました。
ただ、私自身が母への取材をすすめていく過程で、
母の認知症の症状を痛感し、
これは、市の担当者との面接に耐えられないだろうな…と
勝手に判断してしまったのです。

あとで、同じような立場の人から、
「とりあえず、お母さんが署名できちゃったらえかったんよ」と
教えてもらったりして、
…しまった、早まったと感じたのも事実です。

募集条件はさらにあり、
けっこうな日程の研修が組まれていました。
これに全て出席することは、仕事を持っている身には、かなり困難です。
しかし、これも、上司に相談したところ、理解力を示してもらえ、公休をやりくりすることで、最低限の研修を受ける日程は確保できそうでした。コロナ禍もあり、ただでさえ過酷なシフトでしたが、同僚の協力も得られそうでした。

が。
そこで、私は立ち止まります。
そこまでしたいのか、この伝承者を? と。
就いている仕事は大変ではあるし、愚痴はたえないけれど、それ以上に愉快な日々を私に提供してくれています。今の私にとって大切な仕事・職場・同僚を犠牲にしてまで取り組む価値はあるのか?
母の健康状態と、仕事に対する熱意。
ふたつが私の右腕を左腕をひっぱります。
やーめた。

市がさまざまな条件を提示するのは、今は理解できます。
被爆体験の伝承は、それだけ大変なことなのです。
中途半端で取り組んではならないのです。
前へ進む決意が、私には足りなかったのです。

こうして、市の伝承者への道を絶ち、私は楽な道を歩こうとしました。

別にいいじゃん、誰の許可もなく、書けばいいじゃん、と。

それが結果オーライです。
市の伝承者になって、一万字の原稿を認めてもらったら、それは市の公的文書となり、自分で好き勝手に変えることはできなくなってしまうのです。
ましてや、こうやって、ここで発表することもできなかったです。
よかったー、足踏みしてて、よかったー。
市の伝承者に認定されれば、原爆資料館の講話室で定時講話の時間を持てるだけでなく、来館する修学旅行生や旅行者相手に、語ることができます。また、国内外に学校や団体に派遣されて語ることもできます。
今の私には、これはできません。

でも、結局、私は、原爆資料館で母の被爆体験を講話することができるようになります。
その話は次回に。

次回 【まだまだつづくおいおい話そうと思っていたこと】に つづく


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