母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 8
8.陽子の母ちゃん・私の祖母
陽子の母ちゃん、つまり、筆者である私・安芸子の祖母は、平成18年2006年に95歳で亡くなりました。
祖母にとって、娘の娘は私だけだったこともあり、ずいぶん可愛がってもらっていました。私が入学した大学が祖母の母校だったこともあり、先輩後輩と呼びあったりもしていました。祖母の額のきっぽ(傷口)はさわると、ザラザラとガラスの粉が出てくることもありました。
私が大学生の頃、祖母が母の姉・玲子ねえちゃんを看病している写真が、原爆資料館にあると叔母がきいてきました。叔母とは母の妹、そうです、コーリャン弁当をつまみ食いしようとして助かった母の妹です。
祖母と母と叔母と4人で、その写真を探しにいきました。
母と叔母が「あの写真に奥に写っている、あれじゃない?」「あれかも!」と賑やかに会話を交わす中、祖母が写真を見上げて「ああ、まこと、まこと」と呟いた声が記憶に刻み込まれています。
祖母は亡くなるまで、ずっと後悔し続けていることがありました。
玲子ねえちゃんは4月8日生まれだったのですが、一学年早く学校へ上がらせようと3月生まれで届け出を出していたのです。当時、それは良くあることで、祖父母も良かれと思ってしたことなのですが、結果的に、そのことで昭和20年に玲子は国民学校高等科一年生となってしまったのです。本当ならまだ6年生で、同級生たちと疎開しているか、陽子と一緒に分散教室に通っていたはずです。
「あんなむごい死に方をさせずにすんだのに」
祖母は亡くなるまで、そのことを悔いていました。
今は一緒のお墓に眠っています。
原爆資料館にあった写真。
祖母と玲子姉ちゃんが写っている写真って?
次回はこの写真について語ります。
次回【写真を求めて】に つづく