母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 番外編
番外編 ばあちゃんのいとこ
母の母、つまり私の祖母ですが、
その従弟がアメリカで暮らしていました。
太平洋戦争が始まる前に移民した日系1世です。
1986年、21歳だった私。
アメリカのサマーキャンプ滞在中に思い出して、
祖母にコレクトコールで電話して、
住所を教えてもらいました。
カリフォルニアの山奥の住所です。
車で1時間ほどの距離。
ハガキを出しました。
すると、突然、訪ねてきれくれました。
びっくり!です。
「キミちゃんの孫か?」
自宅に招いてくれて、
5㎝の厚さのステーキをご馳走してもらいました。
同じ広島出身の日系人の奥様がいて、
二人の間には、
もう成人して家を出ているお子さんが3人いました。
3人とも医学関係のお仕事に就かれていました。
ご夫婦は農園を経営していらっしゃいました。
お二人の会話は広島弁交じりの英語。
会話に出てくるお金の単位は常に円でした。
一緒にスーパーに買い物にいき、
4ドル99セントのTシャツを見ていると、
「こりゃあ、4円99銭じゃ」と言われ、
「今、一円は何円ね?」ときかれて、
きょとんとしたものです。
帰りにナッツとプレーンを山ほどお土産にもらいました。
祖母と同世代のお二人。
きっと、戦時中は日系人強制収容所に収容されていたのでしょう。
当時も知識として頭にありましたが、
きいてはいけない気がして話題にしませんでした。
…きいておけばよかった。
…くりかえす後悔です。
母の被爆体験を語り継ぐことが、
母から私への宿題。
母の姉・玲子ねえちゃんの物語を書くことが、
さらに課された宿題です。
その先に、ばあちゃんのいとこの物語も掲げておきます。
亡くなった人に会う。
大切な人に、いつまでも近くに生きてもらう。
物語の中で。
26歳からこっち、私が書き続けてきたのは、
会えなくなった大切な人に、いつでも会えるから。
こちらでの「母からの宿題」は、
ここで いったん 小休止。
また別の場所で会いましょう。
ありがとうございました。