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母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 13

13.父

一昨年、母から体験を聴きとっていると、父が「わしの話もきいてくれ」と手記を出してきました。
これまでは母の被爆体験は何度もきいていましたが、父の戦時中の話をきくのは初めてでした。…というか父とはあまり会話をしていませんでした。

父は被爆者ではありません。
原爆が落とされる4ヶ月前まで、広島駅前の町・的場に住んでいましたが、国民学校3年生にあがる年に、一人だけ和歌山県の親戚の家に疎開に出されました。国策で疎開が決まり、集団疎開よりも親戚を頼っての縁故疎開が少しでも過ごしやすかろうとの両親の願いだったとか。
和歌山県は父の父の里がありました。父からみると祖母と叔母にあたる女性2名がいる農家でした。祖母は後妻で、父とは血縁関係はなかったのですが、ちゃんと可愛がってもらったようです。父はかなりのいたずらっ子だったようで、きちんと、しっかり叱ってもらえたようです。

広島駅前の的場には父の両親と二人の幼い妹が残りました。
月日がたつうちに、『どうやら次は広島が攻撃対象らしい』と噂が広まり、家族で遠縁の家に疎開することにしました。
一家そろって和歌山県へ疎開する選択肢もあったのですが、まずは母の遠縁を頼って安芸津に、貸してもらえる家を見つけました。

安芸津。
今、JRで広島から呉方面に1時間半くらいでしょうか。『この世界の片隅に』の舞台にもなった呉より少し東の町です。
家が借りられるとわかっても、不安はつきません。
そこで、実際、どんなところか一度行ってみようと家族で出掛けました。
8月5日、日曜日のことです。

そう、原爆投下の前日です。
行ってみると、不安も吹っ飛ぶくらい、とても良いところで、ここならやっていけそうだと引越を決めたところ、『今夜、5日だから、常会があるから、挨拶して帰りんさい』と家主さんにすすめられました。
常会というのは同じ集落の人が集まって町内会費を集めたり、連絡事項を話し合う場です。そこで挨拶をすればいっぺんにすむと言うので出席しました。
終わったら遅くなったので『今夜は泊まっていきんさい』と勧められ一泊しました。
そうです、それで直爆をまぬがれたのです。

明けて6日に広島が大変なことになってると知って、あわてて的場へ戻ろうとしましたが、途中、汽車が海田市(広島駅まで7,8㎞の距離でしょうか)までしか動かず、そこから歩きました。
夫婦が幼い二人の娘を抱っことおんぶで。
的場に戻ってみると家は焼けてなくなっていて、母の愛用のミシンの骨組みだけが丸焦げで残っていました。
結果的に4人は入市被爆となりました。

原爆が落ちたとき広島にいなくとも、その後、広島に入った人たちは、残留放射能をあびています。二週間以内に、救援活動、医療活動、親族探し等のために、爆心地から2㎞の区域内に立ち入った方を入市被爆者と呼び、被爆者手帳の対象になっています。
他に、被爆者の救護や遺体処理などを行った方、黒い雨を遭った方、さらに胎児だった方も被爆者です。

さて、父の両親と妹は、入市被爆者となったものの、もちろん、当時はそんなことは知りません。何もなくなり、暮らすことができなくなった的場から、着の身着のまま安芸津で暮らし始めます。

父がそのことを知ったのは10月、原爆投下の2ヶ月後です。
それまでは広島は全滅ときかされていました。
それでも「絶対生きとる!」と強く言い張っていた9歳の少年。とは言え、終戦してもなん音沙汰もなく、半ばあきらめ始めたとき手紙が届きました。もう、声にならない声が出て泣いたそうです。
手紙と一緒に、ブリキのジープのオモチャ(進駐軍からもらったのでしょうか)とサツマイモの飴が同封されていました。

広島に帰ってこられたのは、さらにその半年後、1946年の3月でした。
夜、広島駅に降り立つと、焼け野原でさえぎるものはなにもなく、遠くに宮島線の電車(当時は汽車でしょうか)の明りが見えたそうです。
そのときの記憶がよみがえったのが、昨日、紹介したエピソードです。
 
終戦の翌年、下の妹の頭髪が抜け、高熱を出し、亡くなりました。
2歳でした。
栄養失調とされました。
父の父は入市被爆者として被爆者健康手帳を持っていましたが、父の母ともう一人の妹は亡くなるまで持っていませんでした。申請しなかった理由をきくと父は言葉を濁しますが、差別を恐れていたのではないかと考えています。

さて、父は働きながら勉強し、勉強しながら働いて、夜間の大学に入学します。
そこで山岳同好会に入り、新入生歓迎ハイキングのあとの反省会で隣に座っていた女性と話していると、どうも、和歌山に疎開する前に同じ小学校に通っていたことがわかりました。

その女性が母です。

次回 【夫】に つづく

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