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母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 9

9.写真を求めて

前回、お話しした『玲子ねえちゃんを看病する祖母』が写っている一枚。
実は、どの写真なのか、今となっては確認すべき手段がありません。

じらせるだけじらしておいて、そりゃないだろ、安芸子さん!
お怒りの声はごもっとも。
しっかり受け止め、今日は、私がその写真の事実を知るまでのドキュメントをお送りします。
被爆体験の足元にも及びませんが、私にとっては、壮大な大河ドラマの一幕なのであります
はじまり、はじまり…。
 
当初、お気楽な私は、資料館に展示されていた時期や、第一国民学校講堂という場所、その手がかりで資料館で調べてもらえる…と安易な気持ちでおりました。資料館に行けばわかる、資料館で調べてもらえる、と先延ばしにして、どこか他人任せだったのです。
母の被爆体験を語る機会が巡ってきて、ようやく私は調査に乗り出します。そして、自分の浅はかな短慮を思い知らされることになります。

「これだけの情報で写真を特定することはできません」
勇んで出掛けた資料館の受付で、学芸員さんが申し訳なさそうに教えてくださいました。

 莫大な資料を保管する資料館。
1980年代半ば、展示されていた写真は資料館が保管しているものばかりではありませんでした。全国各地、世界各地にある資料をお借りして展示することもあったようです。なので、資料館が保持している写真でなければ、もはや探しようもない…とのこと。

えー…。
安易に見つかると思っていた私は立ち尽くしてしまいました。

そんな私に、学芸員さんは真摯に対応してくださいました。
アポもなく、突然、激務中に訪ねてきた一市民に対して。
まず、データベースの存在を教えてくださいました。(そんなことも知らんかったんかい、安芸子よ!)設置されているパソコンに、場所や手がかりとなる言葉を入力すると、資料館に保管されている資料が提示されます。これは自宅のパソコンからも検索できます。
 
『第一国民学校』
そう入力すると、何枚か写真がでてきました。

かつて第一国民学校があった場所は、今は公園になっています。
段原地区は、爆心地から2~3キロの距離だったにもかかわらず、比治山と呼ばれる小高い丘に守られ、焼失を免れていました。
爆風により建物の多くは倒壊しましたが、戦後、暮らしをたてなおす人々が集まってきた町でもありました。
母も戦後は「畳を壁にして、おじいちゃんが持ってきてくれた瓦を乗せた小屋で暮らした」と語っておりました。「ものすごい台風(枕崎台風?)のときは、飛んでいかないように、みんなで畳をおさえとった」と。
さらに、幼い弟たちが足腰がたたなくなったときは、鍋で下痢をうけて、外に捨てにいったとも言っていました。そんな話をカレーを作りながらポツポツ思い出すように語っていた母。こうやって文章に起こすと、とんでもない母親で、トラウマにもなりかねない出来事ではありますが、陽気な母は、ちょっと面白おかしく語ってくれたものですから、嫌な記憶に繋がっていません。
 
さて、話を段原に戻します。
被爆前は民家や商店が立ち並び、約八千人が暮らしていた賑やかな町だった段原。広島駅へも歩いて数分で、母は「お母さんは街の子じゃったんじゃけぇ」と得意げに話していたものです。
戦後も多くの人々が集って暮らしていた段原に、再開発の手が入ったのは1970年代になってからです。
玲子ねえちゃんが最期を迎えた第一国民学校は、戦後、段原中学へと名前を変え、2011年に南へ移転しました。
跡地は段原山崎第二公園となっていました。
 
写真を求めて資料館へ赴く前に、私はその公園を訪れていました。
方向音痴で、グーグルマップを表示させたスマホを片手に、ぐるぐる向きを変えながら、段原をさまよい、あっち行ったり、こっち戻ったり、行き当たった公民館に助けを求めると、そのすぐ裏だったという嘘みたいなフィールドワークです。しかも、たまたま、その日に公民館に居合わせた公民館主事OBの方が、古い住宅地図を見せてくれて、それが、その方の私物で、その日、自宅に持って帰ろうとしていたところ…というドキュメントつき!

地図には母の旧姓の名前も何件かありました。
この地図を手にした当時、まだ自宅で暮らしていた母の元に、地図のコピーを持ってかけつけましたが、母の記憶と一致する場所はなく、地図の存在は宙ぶらりんとなったままです。
でも、地図を見て、「あの角に店屋があった」「あの2階に暮らしていた学生さんがいた」など、壊れかけていた母の認知能力がにわかに活性化したのは事実です。それからしばらく昔のことを語り続けていたと父が教えてくれました。
 
そうやって訪れた第一国民学校跡地の公園の一角には、校門と当時を移したレリーフ版が解説つきで設置されていました。
そこにある一枚の写真。
それが、データベースにもありました、もちろん。
 
残念ながら、ここに、その写真を掲載することはできません。
えーっ、安芸子、けちーっ!
ここまで読ませておいて、そりゃないだろー!
 
お怒りもお叱りもごもっとも。
しかし、ここは文章だけでご勘弁を。
一応「物書き」を名乗っている手前、文章のみでつづって参りたいと考えております。
と、かっこつけますが、実は権利的な問題もあります。
 
それでも!
どーしても、見たい!
興味ある!
という方は、「広島平和記念資料館平和データベース」で検索してみてください。
さまざまな資料が紹介されています。
写真のみならず、音声や動画もあります。
 
はい、そのデータベースには、私が公園に設置されているレリーフ版で見つけたものの他に数枚、当時の講堂を写したものもありました。
このどれか、どこかに、祖母と玲子ねえちゃんが写っている…はず…。
たて半身に大やけどを負い、裏がえされた畳の上に裸で寝かされている12歳の少女と、頭に傷を負い布を巻いている母親。
ただ、写真に写っているのは、そんな人ばかりです。
ただ、ただ、見入ります。
メガネをはずして(はい、私はメガネをかけております)老眼をこらして。
すみからすみまで。
目をこらします。
が、わかりません。
わからないままです。
私の行動が遅すぎたからです。
祖母が元気なときに、しっかり話をきいていれば…。
 
私にとって祖母は、当然ではありますが、生まれたときから「おばあちゃん」でした。
自分の母や祖母に若いころがあったなんて、想像できるのは、自分が年齢を重ねてからです。
おばあちゃんは、ずっと、おばあちゃんだったわけではないのです。
写真に写っているのは、おばあちゃんだけど、おばあちゃんではありません。自らも頭に大けがを負い、目の前で12歳の娘が瀕死の状態になっている34歳の女性です。他に食べさせていかねばならない幼い子どもが4人にて、姑は寝たきり状態、自宅は壊滅、夫は戦地。どんなに心細かったことでしょう。周囲には同じ境遇の人ばかりとは言え、おばあちゃんは、まだ34歳だったんです。
写真の中のおばあちゃん、いや、どれが、おばあちゃんかもわからず、ましてや、どの写真すらかもわからないのですが、隣にいって寄り添ってあげたい…と思ってしまえたのでした。
 
この一連の写真には、まだ、異なるエピソードへとつながります。
え?
それを、また、次回に持ち越しかい、安芸子さんよ…。
 
次回【見えないけれど見えたもの】に つづく

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