【短編小説3/4】家族伝承 …の母の母

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もはや戦後ではないらしい。
おかしなことを言う。あれから十年たったが、何年たっても戦後は戦後だろうに。
今日も仕事が終わった。これから学校だ。働きながら夜間の学校に通う。いわゆる私は苦学生だ。夕飯代わりの芋を頬張る。冷たくなった焼き芋。でも腹はふくれる。いつも空腹だった子ども時代を思えば贅沢だ。しかも、今は贅沢は敵ではない。
七十年は草木も生えないと言われた町で、どうせ早く死ぬんだろうと子ども時代を過ごした。銭湯にいけば身体にケロイドがある人はぞろぞろいたし、まわりの人が何もわからないままばたばた死んだし、元気だった人が突然亡くなる話もごろごろきいた。だから、自分も大人になるまで死ぬだろうと思っていた。
大人になっていた。
原爆で姉を亡くした。両親はいた。しかし、戦地から戻ってきた父親に仕事はなく、生活は困窮した。貧乏だった。ひもじかった。第一子であった姉が被爆死し、次女だった私が四人の弟と妹を食べさせるため、必死に働いた。もっと勉強したかった。両親がいない戦災孤児だったら国の制度で進学できる道もあった。健在な親をみて恨めしく思うこともあった。
『親が死んでいたら』と思うことは何度もあった。
『姉が生きていたら』と思うことも。
姉は今で言う中学一年で被爆死した。本当はまだ中学生じゃなかった。国民学校の六年生だった。本当なら学徒動員に出ることなく、鶴見橋のたもとで被爆することもなかったはずだ。四月生まれの姉を三月生まれとして、一学年早くに出生届けを出した父親は馬鹿者だ。当時は女児だと良くあることで、良かれと思ってしたことなんだろうけど、結果として娘を亡くしてしまった大馬鹿者だ。でも、それは私に指摘されるまでもなく、本人が一番こたえて罪の意識に押しつぶされいるだろうから黙っておく。
黙って働いて家にお金を入れる。どうしても勉強したいから働きながら夜間の学校に通う。昭和の初期に女学校まで出させてもらっていた母親は応援してくれた。その時代に女学校まで通った母親はたいしたもんだが、娘を女学校に通わせた母親の父も相当なもんだと思う。『教育に税金はかからん』がモットーだったらしい。可能な限り上の学校に通わせるのだと。母親は今もその言葉を受け継いでくれている。可能な限り学校に通わせてくれている。夜も学校に行かずに働けとは言わない。定期的な仕事もなく、収入が不安定な父親も、黙っているけれど反対はしていない。やはり二人が生きていて良かった。
そして、やはり勉強は楽しい。学べば学ぶほど知らないことは減っていくはずなのに、知りたいことが増えていく。不思議だ。どんなことがあっても、自分の子にはきちんと学問を身につけさせたいと思う。そうだ、家訓にしてもいいんじゃないかな。
『教育に税金はかからん』
これからの日本? 世界? 戦争だけはやめてくれ。私らがそれを声に出して訴えていかにゃあならん。でもね、こんだけ滅茶苦茶にしといて、反省もなしにあとはまかせたなんて虫が良すぎる。私の子ども時代をまどうてほしい(「まどう」=広島弁で「弁償する」の最上級。銭金じゃなく元通りにして戻せの意)。今は、今を生きていくだけで精いっぱい。苦しいけれど、学生と名乗れる苦学生。それだけで嬉しい。
教育を受けることが大切だと見抜いていた母方の祖父に感謝。
その想いをひきついで必死に学んだに違いない母にも感謝。昭和初期のあの時代によほどの決意と努力があったに違いない。
母さん、ありがと。
いずれ、私も感謝されるべく大人になろう。
 芋を頬張る。

家族伝承 …の母の母の母 に つづく


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