母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ じいちゃん編②

昭和46年に60歳で亡くなった祖父。
死因は胃ガンでした。
当時は助からない病気だったガン。
「告知されたん?」
かつて、母に問うたとき、母は半笑いで教えてくれました。
「体調が悪ぅなって、呑み仲間のお医者さんに診てもらったら、
 『あんたぁ、こりゃ、ガンじゃ』と言われんよ」
家族も本人からきいたそうです。
「食べるもんがないときも、ひとりで肉とか食べよったけぇ」
母は、やはり半笑いで言っていました。
「入院した部屋の外で、兄弟姉妹がそろって葬式の相談をしたもんよ」
祖父の命日は12月3日。
お葬式には、大きなお寺の本堂に親戚中が集まりました。
私はタイツが苦手で大嫌いではきたくなかったのですが、
「寒いから!」と母にはかされて不機嫌でした。
参列していた子どもは、孫である私たち6人。
祖父母の初孫だった小学3年生の兄を筆頭に、
1年生の従姉、私、5歳と2歳の従弟、そして赤ん坊だった従妹。
従姉と私は「おじいちゃんが死んだ。悲しいお葬式」と
理解できていましたが、
5歳の従弟は状況がわかっておらず、
盆正月にしか集まらない親戚が大勢集まって楽しいと思っていた様子。
大きな声で「ウルトラマンはおっきい!ミラーマンはちっちゃい!」と
はしゃいでいました。
後できくと、兄貴が「ウルトラマンは?」と小さな声できいて、
従弟に「おっきい!」と叫ばしていたとか。
…兄貴よ。
子煩悩な一番若い叔父が、私たちの面倒を見てくれていました。
いつも冗談ばっかり言っている叔父が、真剣な顔で教えてくれました。
「じいちゃんはのぉ、こうやって死んだんで」
身振り手振りで、身体をゆがめて。
よほど、苦しかったんだろうな…と、幼心に悲しくなった直後、
叔父さん、にやり。
「いがんで死んだんじゃ」
広島はもちろん、西日本の方はわかりますよね。
「いがむ」は「ゆがむ」の方言。
物事をまっすぐにとらえる傾向のあった私は、
胃ガンは痛くて身体がゆがんで死んでしまうんだ…と
しばらく信じていました。
しばらくって…、その後10年くらいかな。
中学生か高校生になってから、
「胃ガンって痛みでゆがんでしまうんでしょ」と言ったら、
母に大爆笑されました。
母さん、あなたの弟に言われたんだぞ。

祖父亡きあと、35年生き抜いた祖母。
祖母も、母も、叔母も、下の叔父も長寿でした。
母と一緒に被爆した叔父は健在です。
被爆の影響はなかったんじゃない?と言われたらそうかもしれません。
でも、被爆者だから健診と早期治療の恩恵に授かれたのも事実です。
母も87歳まで生きました。
健康で長生きしたかと問われると、必ずしもそうではありません。
遺された被爆者健康手帳の数値をみると、
かなりしんどかったんだろうな…とみれます。
87歳まで生きた…は、
87歳まで生かされた…です。
まわりの人がわけもわからず、
ばたばた死んでいくのをみて、
自分も明日死ぬかもしれないと思っていた十代から、
毎日毎日、明日死ぬかもしれないと思いながら、
87歳まで生かされたのです。
科学的に証明されていない被爆の影響におびえながら。
それでも、長寿でした。
がんばって生きてくれました。
被爆者である家族は長寿。
放射能の影響で被爆者に多いガンですが、
母も祖母も叔母も死因はガンではありませんでした。
被爆していないおじいちゃん一人がガン。
なんという皮肉


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