母からの宿題 ~母の被爆体験を語る~ 6
6.再会
「ウエノのヒロシくーん!」
翌朝、弟の名前を呼ぶ声がしました。
「キヨコおばさんの声じゃ!」
母の妹であるキヨコ叔母の声でした。
学校の先生をしていた叔母のよくとおる声でした。
祖父と一緒に、母の里から陽子たちを探しにきてくれたのです。
「おーい、ここじゃ、ここじゃ!」
それから、お母ちゃんにも会えました。
広島駅前の郵便局の3階の階段にいたお母ちゃんは、建物ごと崩れ落ち、頭に大けがをし、意識不明のまま二葉の里の救護所に運ばれ一夜を過ごしていました。
7日の朝、意識が戻り、杖をついて段原に戻ってきたところ、近所の人に『お姉ちゃんは大火傷をして第一国民学校の講堂に寝せてある』と教えてもらっていました。
姉ちゃんは建物疎開の作業中、鶴見橋のたもとで、その時を迎えていました。
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つい最近まで、私は母からそう話をきいていました。
玲子ねえちゃんは鶴見橋で被爆した、と。
ところが、違ったのです。
このたび、いろいろな資料を探しているうちに、学芸課の職員さんが、『第一国民学校の関連ならここに書いてあるよ』と一冊の本を教えてくださいました。そこには、被爆し重傷を負いながらも生存された先生の証言が残っていました。それによると、第一国民学校の一年生女子は昭和町で作業中だったと記されていました。
『昭和町方面の家屋疎開作業に出勤中の教職員および生徒全員は、衣服を裂かれ、火傷したもの、吹き飛ばされて負傷したもの、或いは比治山橋付近まで逃げのびて、灼熱の苦しさに川に飛び込んだ者や、流されて溺死する者、逃げのびる途中で力尽きて倒れる者などがあって、凄惨の限りをつくし…』
玲子ねえちゃんもその一人だったのでしょうか。大火傷を負って、鶴見橋まで逃げてきたものの、そこで力つき倒れていたところを救助されたのかもしれません。今となっては想像するしかないのですが…。
次回【ねえちゃん】に つづく