春は駆け足で
どうしてもこう、春になると人は浮かれ易くなるのだろうか。
用事があり、大きな駅の前でタクシーを待っている間に、隣にいる人は私に話しかける。
「伊勢丹に行かれたのですか?」
「ええ」
なんだ、急に。別にどこに行こうが私の勝手じゃないかと私は少し訝る。
「お買い物は楽しいですよね。僕も先日新しく春物のコートを買いました」
「……」
無視するのもなんだし、少しだけ頷いてスマホの画面に目を移した。
立ち上がろうとすると、
「あ、ごめんなさい。気を悪くしましたか。僕が立ち去るので座っていてください。少しだけでも誰かと話をしたかっただけなのです」
その瞬間に私は初めてその声の主を見上げると、マスクで顔はよくわからないけれども、サラサラの髪は短めでまじめなサラリーマンのような感じの三十歳そこそこの男性に見えた。
「よかったら、line交換しませんか」
「……」
ほら、きた。
こんなふうに声を簡単にかけてくる人に、真面目で真剣はないと思うと同時に、少し見ために自信があるのかなとも思う。
「ごめんなさいね、私」
左手、薬指に嵌めているリングを見せる。
「あ、既婚者ですか。すみません」
「こちらこそ、ごめんなさい」
なぜ、私が謝らねばならないのか、よくわからないがとりあえず謝っておくことが無難かなと思った。しかし、ここで逃すには惜しい感じが否めない。だが、しかしマスクだ。マスクがなければ、こんなふうに声を掛けられることはなかったかもしれないし、私も彼のことをいなすこともないし、相手をすることもしなかったかもしれない。
鼻より上の目だけの印象と顔のすべての印象では全く違うことを、もう人は忘れているのかもしれない。
私は実は団子鼻で福笑いのような顔だったら、彼は声を掛けただろうか。私はもうすぐ孫が生まれる年齢なのだが、彼はそれを知っていない。それでもlineを交換してくれただろうか。くっきりと浮かぶほうれい線がないとここまで美化されてしまうものだと、マスクの効能が大きいことに気が付いた週末であった。
三十代前半の彼に彼女がいるのか、もしかしたら妻がいるのかもしれないが私の気持ちが少し揺れたことだけは間違いがない。
今、思う。
少しもったいなかったかもしれない。
次はもうないかもしれないからね。
line交換したらよかったかな。
了
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