銀粉のいたずら
「映見? 早く食べちゃってよ」
ははっ! 私はフォークを持つ手がとまっていたと思われる。大きな窓の向こうではベビーカーを引いた若いママさんがとまって、泣いている赤ちゃんをおもちゃであやしている。
「あ、ごめんごめん」
スパゲティナポリタンは、少し酸味が強すぎる。母の作るものとは味が違うので、タバスコに手を伸ばして少し振りかけた。私はくしゃみをしてしまった。
「くしゅん」
その瞬間、外でファミレスのガレージで大きな音がした。
店内がざわつき始めた、店員が慌ただしくスマホで、固定電話であちこちに電話をし始めた。どうやら外で交通事故でもあったのだろうか、それともガス爆発だろうか。私はフォークを置いた、何かを食べるどころの騒ぎではないと思われる。
「優菜、でよう。なんだか、やばいよ。会計しないと」
「ごめん、私がぼんやりしていて。いくらだったかな」
「870円よ。そんなのは後でいいわ、payで一緒に払うから、急いで。なんだか怖いわ」
サイレンの音やパトカーの音がどんどんと近くなってくる。ざわ、優菜の心の奥でざらついた過去の思い出が手に汗をかかせてくる。両親と沖縄に旅行に行こうとしていた時にインフルエンザに罹ってしまい、キャンセル代金が発生するので私は祖母が来てくれることになり、父と母は私を心配しながらも二人で出かけた。
その沖縄で両親の乗ったタクシーが観光バスに追突されて、即死してしまった。私はその時から一人になった。
もしあの時、私が元気ならばここにはいないはずだ。私も両親とともに死んだのであろうと思われる。だが、私はここにいる。
外の喧騒を見る気にはならない。
祖母の待つ家に帰らねば、あれから10年が過ぎて祖父は亡くなり祖母は猫のお妙と私の帰りを待っているのだ。
「ねえ、老人の運転する車がバックで突っ込んだみたいね。あ、ごめん。行こう! 映見?」
頭が痛い、とんでもない痛さだ。体が重いどうしたっていうのっ!
「優菜、私……。頭が割れそうだわ」
「大丈夫よ、ゆっくりと息を吸って。さあ、そう、ゆっくりと大きくはいて、もう一度」
店員からいつの間にかもらった茶色の紙袋を優菜は私の顔に押し当てていた。前は何も見えない、キッチンペーパーの匂いがするなと思いながら背中をさすってくれる優菜の手の温かさを感じながら呼吸が楽になっていく。頭痛は息が止まって酸欠になっていたのが原因だったようだ。
バスの中で優菜が言う。
「ベビーカーの親子と自転車の男子高校生が重症だって……」
「えっ! 私、その親子。さっき見たかも知れない」
「うそ~。映見ったら。やめてよ」
あの時、タバスコをかけてくしゃみをしたから、車が暴走したのかも。そして自分が病気になっていなければ両親はタクシーに乗らないのかも。だって私はタクシーが苦手だから。きっとハイヤーにしていたはずだ。
でも、でも、でも。
だからなんだって言うんだ。
夕方にも関わらず視界の中に茶色のまだら蝶々が入ってきた。
銀粉でまた、くしゃみをした。
「花粉症じゃないの? 一度耳鼻科で検査して……」優菜の声が遠ざかる。
「優菜?」
横を見ると、同じ大学の黒澤君が優菜の背中にナイフを突き立てていた。馬乗りになり何度も刺そうとしている、瞬間またくしゃみをした時、映見はその弾みでアメコミの主人公のように黒澤君の顔に向かって蹴りを入れていた。
幸い優菜は命を取り留めた。
しかし、映見のキックで吹き飛んだ黒澤君は車道に飛び出して走行してきたトラックに跳ねられて重症を負った。
優菜は数日前に付き合っていた黒澤君と別れて、成宮君と付き合い始めたばかりだったのでそれを逆恨みしていたようだと思うと言ったが、黒澤君が口を開くには数か月かかるようだ。
もしも、もしも、私が両親とともに旅行先で死んでいたら、暴走する車はなくて、優菜は黒澤君に刺されていて……。
いや違う。
バタフライ・エフェクトなんてただの仮説、あり得ない。
私はお妙さんと祖母の待つ家に毎日帰ることがとても幸せだ。この幸せを失いたくはない。いつまでもこの三人で暮らせたらと思うが永遠に続くことがないことを知っている。
まだ恋も知らないのに。
大事な人がいなくなっていく。
もしも好きになった人が私の前からいなくなることが怖くて、恋をすることが怖いと思う。誰かのことを好きになったらと思うことが怖い。恋ってどんなものなのか、少し知っているけれど、その先には踏み込まないようにしているけれど、きっとこのまま一人になることはそんな遠い先ではないことだけは残酷なくらいに私に押し付けてくる。
まだ、愛も知らないのに。
しかし、あのジャンプ&キックはどこで習得したのだろうか?
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