鑑賞「惑溺 Ⅲ」
句友さんに戴いて、最近拝読し書写する
中で、印象に残った一冊。
「惑溺 Ⅲ」は〈わくでき•さん〉と読む。
今回は、俳人の舘野まひろさんを中心に
ゲスト2名も加わり、2000年以降生れの
20代6人によって編まれた個人誌。
しぇるふさんの表紙に誘惑されるまま
不凍港さんがしっかり校正なさった
まひろさんの俳句、まひろさんの鑑賞文、
吉富快斗さんの「惑溺 Ⅱ (前号)」への評文、
滝口然さんの短歌、ゆんゆさんの小品と
読み進めると、この一冊に溺れ…かける
…ような気にさせてもらえる…のかも。
2024年9月8日初版。 目次を揚げる。
俳句の超結社の若手が集まると、たとえば
こんな素敵な一冊が出来上がるのだなぁと
その瑞々しい感性に元気エネルギーを
チャージさせていただいた。面白かった。
舘野まひろ句の中で印象的だったもの
どうだんの花思ふより考へる
燕の子話を聞いてほしさうに
異国語の子音するどき晩夏かな
をさなごのつむじももいろゑのこぐさ
囀やゼムクリップのふくらめる
あぢさゐの葉つぱの方が鮮やかで
私の20代は昭和だった。俳句とも無縁。
いま記憶に残っている出来事もあまりない。
忘れたくなるような事ばかりだったのか。
あの頃俳句と出逢っていても、こんなに
きらきらした句は詠めなかっただろう。
まひろさんは更に、大正から昭和初期を
生きた三戸キクを追いかけて、ここでは
第二句集『こむらさき』を鑑賞している。
「…ただ静かなのではない。敢えて、静か
に書いている気がする。眼前のことを
書き留めるとき、ぐっと堪えて、決して
書き過ぎてはいない」(p.38)
三戸キクは、真摯な客観写生句を詠む俳人
だったらしい。亡くなられてからも誰かに
こんな風に愛されて、その句や句集を紹介
してもらえる俳人は幸せだ。
吉富快斗さんの〈惑溺Ⅱ「溺れるときのその
仕方」〉も興味深く拝読した。
舘野まひろさんの感性や句を彼なりにやや
哲学的に読み解いている。現世でこうした
句友を持つことが出来るのもまた幸せだ。
そして、滝口然さんの「メザニン」10首。
ゆんゆさんの小品「いきぎれ」。
さほど詳しくない分野なので、選んだり
気のきいたことは書けないが、心に響いた。
馴染みのなかった見た目や食感のスイーツを戴いて幸せな気持ちになる感じに似ていた。
今の私の日々の生活に居ない世代の感性と
こうした作品で触れ合える私自身も、また
幸せと言えるのかもしれない。
決してHAPPYをテーマに編集されては
いないのに、リアの暮らしに疲れた時に
読むと、気分転換になる。
新鮮なひとときを下さった句友さんにも
「惑溺 Ⅲ」にも感謝である。
皆さまのご活躍をひっそりと応援している。