三茶編_東京ストーリー_190101_0004

【東京シモダストーリー第2回:中編】2003年、17歳、三軒茶屋。~できるだけ僕たちのままで~

2020年のオリンピックを前に、急速に変わりゆく東京の街。
これは東京に生まれ、33年を生きてきた僕・霜田明寛が、消えゆく平成の東京を綴るエッセイの第2回。三軒茶屋編です。
人生で初めての強い“終わり”を感じ始めていた僕。ドラマ『STAND UP!』に影響を受け、彼女を作って童貞脱出を試みる、すなわち初カノ“SUMMERGATE”を抜けようとするも……といった前編の続きです。


高校生活を思い出すと、夏からの最後の半年間の色だけが妙に濃い。それは経験の濃さや感情の変化の大きさによるもの……みたいなロマンチックなものもあるのかもしれないが、単純に毎日の下校の時間を友達と過ごすようになったことが大きいのかもしれない。

夏は運動部の引退の季節だ。2年半、基本自転車でひとりで帰っていた僕に起きた大きな変化は、友達と一緒に帰るタイミングが毎日一緒になるということだった。

7月の終わり頃のある日の昼。学校は夏休みに突入していた。いよいよ文化祭でやる演劇に向けての練習が本格化してきた。
その日、自転車で学校にいかなかった僕は、午前中だけおこなわれた演劇練習の帰り道、友達のユウくんの自転車の後ろにのっていた。自転車の荷台に横向きに座って、落ちないようにユウくんの腰を持つ。

ユウくんとは中学でもクラスが一緒だった。長身小顔イケメンの彼は3年ズレていたら「EXILEのTAKAHIRO似」と言われていたのだろうが、2003年当時はまだデビュー3年目のEXILEを清木場俊介とATSUSHIがひっぱっている時代。
中学の頃は、今で言うイケメンのことを指し示す言葉は“ジャニーズ系”で、ユウくんは母親たちの間でも「ジャニーズ顔だよねえ」とよく話題にのぼるタイプだった。

中学時代は生徒会長で目立っていたユウくんだったが、高校生になってからは積極的に前に出る感じではなくなり、なんとなくこっちに“降りてきてくれた”感覚だった。中学では優秀とされていても、高校には附属校以外の中学から偏差値70を越えた秀才たちが集まってきており、頭がいいことが長所になりずらくなった、というのも立ち位置の変化を促したのかもしれない。
そんな感覚の変化もあったせいか、高2でクラスが再び一緒になってからは、より距離が縮まっていった。
高3になると、ユウくんは、授業の合間の5分の休み時間になる度に僕をトイレに連れ出すようになった。180cmを越える身長の彼と157cmの僕が連れ立って廊下に出る、という光景が休み時間ごとに、そして毎日続いた。
「トイレ行きすぎじゃね?」と聞いたときは「頻尿なんだよ、俺」と言っていたが、今思うと2人で話す空間を作る口実だったようにも思う。

野球部のユウくんは脚力があり、特に大変そうでもなく、三軒茶屋の商店街の人の流れを器用に抜けながら、夏服の高校生男子2人をのせた自転車を進めていく。
見上げると、ユウくんの頭上にキャロットタワーが見えて、その横から太陽が覗いていて眩しい。甲子園の都大会予選の前に坊主にした頭が汗に滲んで、光に照らされている。7月の最初には気合の象徴だった坊主頭が、ベンチのままマウンドに一度も出ず敗退してしまった今、エネルギーの行き先をなくしてしまったようにも見える。

「俺、先に18歳になったわ」
やばい、友達の誕生日を忘れていた……と内心少し焦る。
自転車が右に曲がったところで、少し重心がとりづらくなり、ユウくんのズボンを強く握った。
ユウくんは曲がってもペダルを漕ぐスピードを緩めることなく、背中越しに言葉を続けた。
「なんかメシ食いにいかない?」
「誕生日を祝ってよ」的なことなのだろうか。表情が見えない分、意図が読めない。
だが、出てきた提案は僕らの日常の延長線上のものだった。
「あの、100円でうどんが食えるとこ」


前の年に、渋谷に初の店舗ができて話題になった『はなまるうどん』は、100円でうどんが食べられるということが大きな衝撃だった。
「デフレ」という言葉が高校生でもなんとなく体感できる状況で、マックのハンバーガーが80円だったり、400円はした牛丼が、最初は期間限定だったはずが、いつのまにか常に200円代で食べられるようになっていたりと、色々なチェーンが値下げ合戦を繰り広げているような時期だった。
そして、ついに三軒茶屋にも新たに『はなまるうどん』の店舗ができたのだった。

ビルの2階にあった店舗の中で僕たちが頼んだのは、100円のうどん、のみである。100円でうどんが食べられる。それだけで充分に幸せだった。
何か、2人でくだらない話をして、笑い合っていたのだと思う。

隣の席から視線を感じる。そこには50代くらいの女性二人組がいた。
「あなたたち……」
突如として話しかけられる。
「それだけじゃ栄養足りなくなっちゃうわよ。これあげるわ」
と言って、自分たちのテーブルの上にある、天ぷらなどのトッピングの料理がのっかった皿を指さした。
幸福度としては、100円のうどんだけで満足だったが、高校生のお腹はまだまだ天ぷらも放り込める。
「ええっ、申し訳ないです」
2人とも、すぐに「ありがとうございます!!」と言えないタイプだった。
「いいのよ、あなたたちかわいいし、さっきから面白かったから。それに私達だけじゃ食べきれないくらい、とっちゃった気もするのよね」

ユウくんに一極集中していたバレンタインのチョコレートの余りを、中学のときから僕はもらって食べていたりしたから、イケメンと一緒にいると得をできることには慣れていた。それでも見知らぬ人に恵んでもらうのは初めてで一瞬戸惑ったが、理由は受け止めることができた。2人が僕らに向けてくれているのが完全に善意の笑顔であることは、すぐに分かる。
「かわいい」の部分はユウくんのお陰だが「おもしろい」の部分は僕も貢献しているはずだ。「おもしろい」も価値になるのか、というのは発見だったが、それなら僕も多少の恩恵には預かってもいいのかもしれない。

しいたけの天ぷらや、ちくわやらを2~3コづつもらった。うどんにのせると、質素だったお椀は急に豪勢になり、輝きを放った。『はなまるうどん』には前にも来たことがあったが、“食事を100円ですませるためのお店”だと思っていたくらいなので、ものすごく贅沢なことをしている気分になった。
「めちゃうまいな!」「ありがとうございます!!」2人でものすごい勢いで、うどんと天ぷらをかけこみながら、お礼を言った。
ユウくんの誕生日を豪勢なものにしてくれた女性2人に心から感謝した。

その日からなんとなく、ユウくんと毎日一緒に帰る夏が続いた。


9月に文化祭が終わると、一気に3年生は受験モードに切り替わった。だが、僕には急に、後輩からのちょっとした“演劇頑張ったボーナス”が降り注ぐようになり、受験に集中できずにいた。
演劇をやっていると、少し離れた場所からは、クラスの中心にいるように見えるのだ。文化祭が終わった翌週の掃除の時間が始まる直前の昼休みの終わり際、ひとりで校内の螺旋状の大階段を降りていると、下の方ほうから駆け上がってくる女のコがいた。
初めて見るそのコに「シモダ先輩……ですよね?」と確認をされ、「演劇よかったです!」と褒められて、挨拶もそこそこにメールアドレスを聞かれた。僕のことを一方的に知っているコに話しかけられる、自分の演技を褒められる、女子のほうからメールアドレスを聞かれる……全てが初めての経験に舞い上がった僕は、それだけで「このコは僕のことを好きなんだ」と思い込んだ。

10代の男子の思い込みの勢いは、なかなか収集がつかない。完成から5年、11月の最初の時点で既にクリスマスのイルミネーションが始めているという、毎年気の早い新宿サザンテラスで、イルミネーションが始まった日に告白をし、OKをもらった。

ひとつ下のそのコは、少し色黒で、対照的に大きい目の白い部分が目立った。
「あいつ頭いいけど、タイ人みたいな顔してません? ある意味、霜田くんの学年のピチャヤさんよりタイ人ですよ。顔タイ人だけど、タイ人ほどお金もないだろうし」
そのコと同じクラスで、ディベート部の後輩の男子には、タイ人留学生の名前を出されながら、若干の揶揄をされた。だが、その言葉は全く気にならないほど、あの頃の僕のかわいいかどうかの判断基準は、目が大きいかどうかだった。

ちなみに「タイ人ほどお金もないだろうし」というのは、こういうことだ。
各学年に3~4名派遣されるタイ人留学生は、タイ王国から選定されて国費で派遣されてきて、将来タイの中枢を担うことになる超がつくエリート。だいたいが富豪の家庭のため、僕ら普通の日本人よりよっぽどお金に余裕があった、という共通認識からきている話なのだ。
ユウくんが「こないだラチョットと渋谷のビックカメラに行ったら、4万するデジカメを躊躇なく買ってて、なんかヘコんだよ」と笑っていたのを思い出した。


タイ人顔だろうがなんだろうが「このコは僕を受け入れてくれたコなんだ」という安心感は、より僕に映る“彼女”をかわいく見せた。
彼女は、地方の中学で優秀だったから、学芸大学附属高校に入学するために単身上京してきたという、進学校ならではの状況のコで、学生寮に住んでいた。僕らの高校には寮はないため、他の学校のコとも一緒で、仲が良くなるらしい。

寮の場所は駒沢大学。幸運にも三軒茶屋を通る田園都市線組である。帰りはもちろん三軒茶屋まで一緒に帰った。帰りだけじゃない。高3になると授業は選択制になっていて、1限から行かなくていい日も多かったのだが、彼女と一緒に登校するために、自分が3限からでいい日も、1限から登校していた。
起こさないと昼過ぎまで寝ているような息子が、急に7時に家を出る準備を始めたことに母親は訝しげな顔をしていたが「朝は学習効率がいいから、自習室にこもって勉強することにした」の一言で押し通した。

ある日の帰り道、彼女の首元にシルバーのアクセサリーがついていて「それどうしたの?」と聞くと、同い年の寮の友達にもらった、と説明してこう続けた。
「そのコね、ずっと寮で一緒で、女優やってるって言ってたんだけど、10月から始まった朝ドラに出てるの。主人公の4姉妹のうちのひとり。すごくない?」

名前はウエノジュリというらしい。
「クレアラシルのCMに出てたコなの。だから私も使ってる」

同世代の人がどんどんと世の中に出ていくことの焦りを、初めて感じ始めたのはこの頃からだった。自分もちゃんと世の中に名前を出したいはずなのに、目の前でやるべきことが受験勉強くらいしか見当たらない。見つけられない。

だが、同じ東京にいるはずの同世代はどんどんと活躍をしていく。同じ場所にはいないのに、それでも差が開いていくのをありありと実感できた。
『芸能人高額納税者ランキング』といった週刊誌の記事をコンビニで立ち読みをする。SMAPやDA PUMPのメンバーの名前が信じられないほどの額を納税している数字と、そこからの推定年収が書いてあった。彼らがこれだけ稼いでるなら、その後輩で、僕と同い年のNEWSやw-inds.のメンバーはどれくらいなんだろう、と考える。10代の時点で既にわかりやすく社会に価値を提供できている彼らを見ると、自分の向いている方向が正しいのか不安になった。

かといって、受験勉強を放棄するほどの勇気もない。それを放棄するのは許されなさそうな空気が、あの頃の僕の周りにはあった。あの空気は誰が作っていたんだろう。
家庭なのか、高校なのか、それともそんなものはなくて僕のただの思いこみが作った幻覚だったのか。
東大か医学部を目指す同級生だらけの中、クラスの男子の中で僕とユウくんだけが私立文系組だった。「私立しか受けないの?」という質問が嘲笑に聞こえて、上智大学の赤本ですら隠すように持っていた。

彼女の胸下に輝くアクセサリーは高そうに見えた。値段は聞けなかった。聞いて、到底かなわないことを自覚するのが怖かった。
1ヶ月後にはクリスマスがやってくる。僕はこのアクセサリーよりいいものを買うことになるのだろうか。買えるのだろうか。


9月に文化祭が終わったと思ったら、恋や受験勉強が一気にやってきて、何かの変化を迫られている気がした。

彼女ができたことは僕自体には明らかに“変化”だった。
だが、それは彼女にとってもそうだった。

僕もそのコも“つきあう”という行為自体が初めてで、多くの高校生がきっとそうであるように、その関係性に身をおいたときに何をすべきなのか、よくわかっていなかった。
ひとまず、周りの生徒たちがするように、登下校を一緒にし、昼休みにはそれぞれの教室を出て、講堂の裏で一緒にお弁当を食べた。
昼休みの講堂の裏は、いつも何組かカップルがいた。カップルが溢れすぎている日は、彼女の所属する弓道部のプレハブ小屋に移動した。

そんな日々を重ねていく中で、どんどんと何かが変わっていく気がした。
嵐のアルバム曲『できるだけ』の歌詞を思い出す。

できるだけ僕のままで いたいと思う気持ちは
甘えか自分らしさなのか わからないけれど

ユウくんから約2ヶ月遅れて、僕も18歳になった。
僕たちは、僕たちのままでいられるのだろうか。
変わることは、何かを失うこと――そんな予感がした。
そして、その予感はあながち間違いでもなく、意外と身近なところからやってきた。


講堂裏での日々が3週間ほど続いたときだった。いつものように、3限と4限の間の5分休みにトイレに僕を連れ出したユウくんが、並んで小便をしながらこう言った。
「霜田くんさ、いつまであの彼女みたいなのと一緒にいるつもりなの?」
驚いてユウくんの顔を見上げる。彼は隣の僕を見ることなく、前を向いていた。トイレの小窓から降り注ぐ木漏れ日がユウくんの顔を照らしている。外で木が揺れているのか、照らされる位置が瞬間ごとに変わって、表情が見えづらい。そして、言葉を続けた。

「あと何回、俺らで昼飯が一緒に食べれるかって話だよ」
責める口調でもなく、諭すでもなく、ただ心から出てきた言葉を純粋にぶつけられた気がした。「あ、ああ……」とだけ言って、僕は何も答えることができなかった。

東京シモダストーリー三軒茶屋編、後編に続きます!



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