霜田明寛/東京シモダストーリー

1985年生まれ。 東京ドルトンスクール→用賀小学校→学芸大学附属世田谷中学校→学芸大…

霜田明寛/東京シモダストーリー

1985年生まれ。 東京ドルトンスクール→用賀小学校→学芸大学附属世田谷中学校→学芸大学附属高等学校→早稲田大学→四谷大塚渋谷校舎→トレンダーズ株式会社(恵比寿)

最近の記事

1994年、恵比寿と母とメリークリスマス。【東京シモダストーリー第3回】

東京に生まれ、33年を生きてきた僕・霜田明寛が、消えゆく平成の東京を綴るエッセイの第3回です。 “平成の東京”であり“僕の平成”であり“僕の東京”……2000年(14歳)、2003年(17歳)ときましたが、今回はさらに過去の“9歳”へ……! ■ 2019年の成人の日。僕は、俳優の中川大志さんの“はたちを祝う会”というイベントの司会をするために、恵比寿ガーデンプレイスに向かっていた。 大事なイベントのときは、キャラではないがタクシーで会場に向かう。 ガーデンプレイスの敷地の中

    • 2003年、18歳、三軒茶屋。~Complicated~【東京シモダストーリー第2回:後編】

      ついに第1回で書いた、渋谷区桜丘町の道が“廃道”になりました。 ハイドウ。そんな言葉、初めて聞きました。 ということでこれは、東京に生まれ33年間を生きてきた僕・霜田明寛が、消えゆく平成の東京を、当時のカルチャーと交えながら綴っていくエッセイです。  2回目の三軒茶屋編は、前編・中編・後編の3部作になってしまいました。 嵐の『できるだけ』を聞いていた高3の僕の話を中編で書いて、 後編にもというか、むしろ後編で主にその話が出てくるのですが、 さあ今日アップしようかなと思った20

      • 【東京シモダストーリー第2回:中編】2003年、17歳、三軒茶屋。~できるだけ僕たちのままで~

        ■ 高校生活を思い出すと、夏からの最後の半年間の色だけが妙に濃い。それは経験の濃さや感情の変化の大きさによるもの……みたいなロマンチックなものもあるのかもしれないが、単純に毎日の下校の時間を友達と過ごすようになったことが大きいのかもしれない。 夏は運動部の引退の季節だ。2年半、基本自転車でひとりで帰っていた僕に起きた大きな変化は、友達と一緒に帰るタイミングが毎日一緒になるということだった。 7月の終わり頃のある日の昼。学校は夏休みに突入していた。いよいよ文化祭でやる演劇に

        • 【東京シモダストーリー第2回:前編】2003年、17歳、三軒茶屋。~初カノSUMMER GATEが抜けられない~

          東京に生まれ、33年を生きてきた僕・霜田明寛が、消えゆく平成の東京を綴るエッセイの第2回です。 “平成の東京”であり“僕の平成”であり“僕の東京”を、2000年の代官山を舞台に書いた第1回はお陰様で、色々な反響を頂きました。 自分でも「気持ち悪いくらいの記憶力だな」と思って書いてたのですが、同時代を生きてきた皆様から「私はこのとき◯◯にいた」「私は◯◯を聞いていた」といった細かい情報が集まってきたのは、素直に嬉しかったです。 “消えゆく時代を皆で共有していく”この連載のコンセ

        1994年、恵比寿と母とメリークリスマス。【東京シモダストーリー第3回】

          【東京シモダストーリー第1回】2000年、代官山、14歳。~僕たちのミュージックアワー~

          第1回:2000年、代官山、14歳。~僕たちのミュージックアワー~■ 2000年の夏、14歳の僕たちは代官山にいた。 学年160人のうち、30人ほどしか高校にあがれないという“名ばかりの附属中学”からの内部進学試験を突破するために、代官山にある進学Z会という進学塾に通っていたのだった。 その年の冬、代官山は月9ドラマ『やまとなでしこ』で、松嶋菜々子演じる主人公が“住んでいると嘘をついていた街”として、金持ちの記号として使われることになるが、僕にとっては “塾のある街”でし

          【東京シモダストーリー第1回】2000年、代官山、14歳。~僕たちのミュージックアワー~