三茶編_東京ストーリー_190101_0010

【東京シモダストーリー第2回:前編】2003年、17歳、三軒茶屋。~初カノSUMMER GATEが抜けられない~

東京に生まれ、33年を生きてきた僕・霜田明寛が、消えゆく平成の東京を綴るエッセイの第2回です。
“平成の東京”であり“僕の平成”であり“僕の東京”を、2000年の代官山を舞台に書いた第1回はお陰様で、色々な反響を頂きました。
自分でも「気持ち悪いくらいの記憶力だな」と思って書いてたのですが、同時代を生きてきた皆様から「私はこのとき◯◯にいた」「私は◯◯を聞いていた」といった細かい情報が集まってきたのは、素直に嬉しかったです。
“消えゆく時代を皆で共有していく”この連載のコンセプトにもとってもありがたいのですが、DMだとスルーしがちなので、ぜひ今回もコメントなど頂けると嬉しいです。
ということで、今回は前回の中3から3年後、高3の夏からの話です。前後編2回に分けてお届けします。
※第1回はこちらから!

【第2回:前編】2003年、17歳、三軒茶屋。~初カノSUMMER GATEが抜けられない~



2003年の夏。
高校3年生の僕は、人生で初めての強い“終わり”を感じ始めていた。
3年間通り続けた三軒茶屋も、通らなくなる日が来るのだろうか。

“サブカルの街”、“野心を実現させようと東京に来た若者が似た感性の者を求めて集まる街”etc…青年と完全に落ち着いた大人になる前の間のようなイメージが三軒茶屋にはあることを大人になってから知った。
だけど、僕にとっては10代の思春期真っ只中を過ごしたのが三軒茶屋だった。

なんで三軒茶屋中央劇場という映画館では中学のときに見た『キャスト・アウェイ』が今、上映されているのかも、不気味な文字が書かれた倉庫があるのが何屋なのかも、その奥にある煙突が銭湯であることすらもわからなかった。


一方が地下にあるからわかりにくいが、田園都市線と東横線は、ほぼ並行して通っている。さらに言えば小田急線もそうで、東京の西側はこの3つの線がそれぞれの色を放ちながら横に貫いている感覚で、僕はその3本の線を縫うように生きてきた。
3本の線路は多摩川をわたり神奈川に繋がっていく。東横線は、代官山を過ぎたあたりで急に辻褄をあわせるように方向を変え、田園都市線と東横線の2つの線路は渋谷で交わる。

僕の通っていた学芸大学附属高校は、その2つの線路の間の地域、陸の孤島・世田谷を象徴するような、お世辞にも交通の便がいいとは言えない場所にあった。
生徒は、東横線・学芸大学駅を使う組と、田園都市線・三軒茶屋駅を使う組に別れた。どちらにも歩いて15分~20分程度かかるのだが、比率としては8:2くらいの感覚で、三軒茶屋組は少数派だった。

三軒茶屋組の通学ラッシュの朝は、歩くか、もしくは、昭和女子大の学生たちが駅からすぐの学校に、わいわいと騒ぎながら集団で通うのを尻目に、バス停に並ぶ者が多い。

僕はといえばさらに超少数派の自転車通学組。方面的には三軒茶屋駅を通るのだが、遅くまで練習している運動部とも時間があわない上に、自転車ということも重なり、ほとんどひとりで、夕方の三軒茶屋の商店街を疾走することが多かった。夕食準備の買い物に出てきた主婦やデート中のカップルにぶつからないようにしながら、器用に商店街を抜ける。

世田谷通りに出ると、ペダルをこぐスピードを上げる。
三茶の空は、どこで見上げてもキャロットタワーが目に入る。
バスケ部のモテていた先輩から「キャロットタワーの展望室は無料だし、デートスポットとして最高だから霜田も使うといいよ」と1年生のときに教えてもらったが、使う機会のないまま三茶通学の3年目を迎えていた。


7月。「自分たちにタイミングをあわせてきたんじゃないか?」と思うくらいのタイミングで、高校生が主役の青春ドラマ2本が放送開始した。
山田孝之主演のドラマ版『ウォーターボーイズ』と、嵐の二宮和也とまだジャニーズJr.だった山Pのダブル主演の『STAND UP!』。
特に僕がハマったのは、二宮和也、山下智久、小栗旬、成宮寛貴の4人が、高校生活の間に童貞脱出を試みるという設定の『STAND UP!』だった。ヒロインは鈴木杏。
「この4人が童貞のワケがない」という発想はすぐに消えるほど説得力があって、完全に自分の状況を重ね合わせていた。

当時、僕が通う高校は、週刊誌が発表する東大合格者数ランキングには必ずTOP10に入っているような進学校だったにも関わらず、3年生は9月の文化祭でやる演劇に精を出すのが伝統だった。
2年と3年の間にはクラス替えがないため、3年になる直前の3月頃から準備をはじめ、夏休みも毎日、学校に集まって演劇の練習。

7月のある日、主役だった男友達が、準主役だった僕に「ちょっと今日は相談があるから、霜ちゃんと一緒に三茶まで帰る」と言い出した。
何を言い出されるのかと構えながら、校門を一緒に出る。学芸大学駅方面に家があるはずの彼は、まだ三軒茶屋のエリアにもたどり着かないくらいすぐの頃、真剣な顔をして僕に言った。
「なあ、演劇やめて、シンクロやんない?」
あの頃、僕たちはすぐに感化されやすかったんだ。

僕は、男友達とプリクラを撮って、自分の顔の上に『ショーちゃん』、友達の顔の上に『ケンケン』と、ニノと山Pの役名を落書きするくらいには影響を受けていた。
そして、自分を重ねて、どうにか青春ドラマらしきことを起こそうとしていた。

4月に初めて話して以来、嵐が好きということもあって仲良くできていた1年生の後輩の女のコをお台場にデートに誘った。
2人でプリクラを撮った。分けるために、ゲーセンのハサミのおかれたスペースでプリクラを切りながら、ふと思いついた僕は『STAND UP!』に影響を受けて撮った男2人のプリクラを手帳から取り出し、「あげる」と言って切って渡した。
今思えば押し付けもいいところだが、12枚を半分に分けたから、6枚しかないプリクラを誰かにあげることに、自分の切れ端を渡すような、決意のいることをしている感覚を覚えていた。彼女は笑いながらもらってくれた。

その日告白しようと思っていたもののできずに終わり、翌日自分の部屋から携帯で電話した。
途中で切れないようにガラケーのアンテナを最大限にのばして、「アンテナを空中で振ると電波つかまえやすい」という今となっては本当かどうかよくわからない噂を信じて思いっきりアンテナをふって、震えながら電話をして告白してOKをもらった。
17年間生きてきた僕に、初カノができた瞬間だった。

自分の部屋の中で、親に聞こえないように小声で告白をしたのだが、OKの電話をきって二つ折りのガラケーを閉じた瞬間、僕は思いっきり自分の部屋のドアを開け、MDコンポのあるリビングに出ていって、SMAPの『SUMMER GATE』をかけた。
その頃年1くらいのペースでアルバムを出し、ライブツアーをするというペースが根付いていたSMAPの『SMAP 016 / MIJ』というアルバムに入っていた曲だ。その年は頭から『世界に一つだけの花』がかかりまくっていて、そろそろ飽きてきた初夏に発売されたアルバムだった。

愛しあいたいのに 君はshy shy
抱きしめあうのに シャツはいらない

完全に、頭がシャツを脱がせることでいっぱいだった。

なぜか突如、大音量で『SUMMER GATE』をかけて歌いながらはしゃぐ息子を母親はどう見ていたのだろうか。
何も言われなかったが、すべて見透かされていたような気もする。


高校のミスコンに選ばれるような派手目なタイプだったそのコは、ある日「“あんちゃん”と仲がいい」と言っていた。聞くと、幼少期から通っていた英語教室が鈴木杏と一緒で、同い年同士、仲良くなったのだという。

僕の先にそのコがいて、そのコの先に鈴木杏がいる。さっきまで話題に出ていた鈴木杏が、夜テレビで『STAND UP!』を見ると、ニノの童貞脱出の対象にされようとしている。
僕はその鈴木杏の友達で童貞を脱出しようとしている。

今になると思う。
遠く交わらないと思っていた世界は、実は地続きのかもしれない。
ただ、高校生にとって“芸能人と友達”は威力のありすぎる話で、鈴木杏を“彼女の友達”だと思おうとしても、実感が持てなかった。4者を無理やり繋げようと考えれば考えるほど、大きな断絶を感じて、まだまだ遠く交わらない世界に思えた。
そもそも、その前提である、目の前のコが“彼女”であることにも実感が持てないまま、数日後に電話がかかってくる。

「なんか違った」

まだドラマでの鈴木杏との恋模様も盛り上がり始める前の段階で、僕の恋は、突如として打ち切りを告げられた。
4者を繋げようとした思考すら滑稽なものに思えてくる。鈴木杏やその先は愚か、目の前のコとも実は繋がれていなかったのだった。

僕はニノや山Pになれないのはもちろん、ケンケンやコウくんにすらなれなかった。
数日前にOKをもらったはずの自分の部屋でうなだれて、ふと机の上を見ると、1枚だけ切り取られたいびつな形のプリクラが置かれていた。


今回は前中後編。中編 【東京シモダストーリー第2回:中編】2003年、17歳、三軒茶屋。~できるだけ僕たちのままで~  は以下リンクから!


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